概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 水堀あり | ||
概要
陣の森城(小路館)は、佐賀県小城市芦刈町芦溝の小路集落周辺に位置する中世武士の平城・環濠居館(小路遺跡)跡である。佐賀平野南部の低湿地帯に築かれ、周辺に縦横に巡るクリーク(水路網)を天然の堀(環濠)として利用した典型的なクリーク城郭である。昭和54年(1979年)の発掘調査では鎌倉時代から16世紀にかけての掘立柱建物跡や溝跡、貿易陶磁器・国産陶器等の遺物が多数検出された。水田化や宅地化により地上の土木遺構は明確ではないが、館跡周囲の水路網に環濠の面影を残しており、現地道路沿いに小城市教育委員会による「陣の森城跡・小路遺跡(徳島氏の館跡)」の解説案内板が設置されている。
歴史的役割
九州千葉氏の一族であり芦刈の在地領主であった徳島氏代々の居城・館として機能した。元亀元年(1570年)に豊後大友氏の大軍が佐賀へ侵攻した「今山の戦い」では、城主の徳島大和守が龍造寺隆信・鍋島直茂に呼応して参戦し、夜襲決行の前夜に龍造寺隆信と鍋島直茂の妻子を当城へ避難させて保護した功績が伝わる。その後、徳島氏は有馬氏や龍造寺氏に属し、江戸時代初期に小城藩が成立すると藩士として召し抱えられ小城城下へと移住した。これにより領主居館としての役割を終え廃城・帰農した。近隣の古刹・福田寺は徳島氏の菩提寺として伝わる。
見どころ
小城市設置の陣の森城跡(小路遺跡・徳島氏館跡)解説案内板、館跡を囲む環濠(クリーク)水路遺構、徳島氏・神代氏ゆかりの菩提寺・福田寺
ご当地グルメ
小城羊羹、芦刈名物ムツゴロウ料理、ワラスボ料理、有明海苔料理、佐賀牛料理
おいど攻城記録
陣の森城跡・小路遺跡
肥前千葉氏の一族である徳島氏は、永正年間(1504年~1520年)に芦刈町の浜中と小路(陣の森、蝮森、珍の山とも呼ばれた)に館を築き、千葉氏に次いで龍造寺氏・鍋島氏に仕えた。

一族の中でも徳島孫八郎盛秀は智勇に優れ、永禄5年(1562年)に西肥前の有馬氏と大村氏が佐賀に攻め込んできたとき(丹坂峠の合戦)、盛秀は龍造寺軍の先鋒として柳鶴(現・小城市牛津町)で奮戦した。また、元亀元年(1570年)に豊後の大友氏が佐賀に攻め込んできたとき、盛秀は当時龍造寺氏の家臣であった鍋島直茂に従って大友軍の陣が或る今山(現・佐賀市大和町)に奇襲をかけ(今山の合戦)、大友軍を打ち破った。

その後鍋島氏が佐賀藩主となり、その初代藩主勝茂の子元茂が小城藩を創設すると、徳島一族は元茂の家臣となり、やがて小城に移り住むようになった。これまで陣の森城跡・小路遺跡では、昭和49年(1974年)に実施された付近の水田の地質調査で、天正年間(1573年~1592年)前後のものと推定される五輪塔や宝篋印塔が発見されました。

また、昭和54年(1979年)には、圃場整備事業に伴い発掘調査がおこなわれ、13世紀の集落跡と16世紀の館跡が発掘された。遺物は、食器類の土師器・陶磁器や金属製品、石製品、獣骨、銅銭などが出土した。鎌倉時代に一度廃絶した集落に、改めて戦国時代に館が営まれたと推定される。

特に、中国や朝鮮の陶磁器が多量に出土しており、そのなかの元・明、高麗・李氏朝鮮時代の陶磁器類18点が、佐賀県立九州陶磁文化館(有田町)に寄託展示されている。
※現地説明板より




徳島家・神代家の菩提寺 福田寺
福田寺は、禅宗の一派、曹洞宗の寺院です。戦国時代に鴨打氏と共に芦刈を治めた徳島盛秀を庵主として妻・阿福(龍造寺隆信の叔母)の、先祖の供養のため筑前南林寺の松岩英祝大和尚を請待して、永禄2年(1559)に福田寺を開山しました。本寺は徳島氏に次いで、領主となった神代家良の菩提寺でもあり、寺内には徳島家や神代家代々の墓塔が祀られています。徳島氏は千葉胤鎮の系統で、戦国時代まで芦刈地域を治め、後に小城城下に移り住みました。

神代氏は、戦国時代三瀬一帯に勢力を持ち、江戸時代は、現在の佐賀市川久保、芦刈に領地を持っていました。なお、江藤新平の母方の浦氏や、従兄弟で共に国事に奔走した江原喜右衛門の菩提寺であります。本堂に掲げられた「鶴鹿山」と「福田禅寺」の木額は中林梧竹の揮毫によるものです。
※現地説明板より

2026/2最終訪問