概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・横堀あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
| ※ 基本情報等については、AIを利用して情報収集しているため、誤り等がある可能性が御座います。誤情報や指摘等がありましたらコメントでお知らせください。 | |||
概要
高城城(児湯高城)は、児湯郡木城町大字高城の小丸川北岸、標高約62メートルの舌状台地先端部に築かれた中世山城である。南側と東側を小丸川の急崖と屈曲流路に守られた天然の要害に位置し、本丸・二の丸・三の丸(松尾丸)・大手曲輪などが深い空堀や堀切によって分断・連結された連郭式の縄張を誇る。シラス台地特有の切り立った切岸と深大な堀切、土塁が極めて良好に現存する。現在は城山公園として整備されており、本丸跡には城址碑や展望台が置かれ、眼下の小丸川や耳川合戦の激戦地となった高城川原(木城平野)を一望できる。木城町指定史跡。
歴史的役割
室町時代の文安年間に県(延岡)の領主・土持宣忠が築城したと伝わる。戦国期には日向中央部へ勢力を伸ばした伊東義祐の支配下に入り「伊東四十八城」の重要拠点となったが、天正5年(1577年)に島津義久が日向へ侵攻し奪取。島津氏の猛将・山田新介有信が城代として入城した。天正6年(1578年)、伊東氏を救援すべく大友宗麟・田原紹忍率いる大友大軍が南下して高城を包囲。山田有信らは寡兵で頑強に籠城し、救援に駆けつけた島津義久・家久ら本隊とともに「耳川の戦い(高城川の戦い)」で大友軍を壊滅させ、九州戦国史の趨勢を決した。天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐でも激戦地となり、江戸期の一国一城令で廃城となった。
見どころ
本丸と二の丸・三の丸を隔てる深大かつ長大な空堀・堀切群、本丸周囲を巡る土塁と急峻なシラス切岸、城山公園山頂からの小丸川および耳川合戦場(木城平野)の眺望、山田有信籠城の歴史を伝える城址碑および解説板
ご当地グルメ
木城町特産キジ肉料理、宮崎チキン南蛮、みやざき地頭鶏炭火焼、川南・児湯ポーク料理、日向夏スイーツ
おいど攻城記録
駐車場

高城城跡
高城城跡は、小丸川とその支流である切原川に挟まれ、標高60mを数えます。地形は、舌状に細長く伸び台地であり、見晴らしには大変優れた所に営まれた山城であります。この城では、天正6年(1578年)、天正15年(1587年)の二度に渡り、大合戦がありました。その当時、日向で勢力を誇っていた伊東氏が島津氏に負けて大分に逃げ、親類の大友氏を頼ります。

大友氏はこの際、新興勢力の島津氏をつぶそうと、約5万の大軍でこの城を攻撃しました。しかし高城城主山田新介有信(やまだしんすけありのぶ)はわずかな兵力でよく防ぎ、とうとう大友軍は大敗しました。これを高城川合戦と呼んでます。この合戦が原因で、今度は豊臣秀吉の弟、秀長率いる15万の大軍と合戦することになりますが、この時も新介はよく防ぎ、この城は落城しませんでした。これらの戦いは、戦国時代の九州において最大規模の合戦であります。またこの高城は、その二度の戦いとも落城しなかった難攻不落の名城として、名将、山田新介有信の名と共に語り継がれています。

城としての特徴は、現在、城山公園として利用されている箇所が、東側の主郭と考えられる曲輪(くるわ)と考えられています。ここでは島津氏の家臣であった城主、山田新介有信らが、戦いに備えるための本部として利用していたと考えられます。またこの城に敵が侵入するのを防ぐために、7箇所の竪堀(たてぼり)がみられるのが特徴です。当時の山城にはこういった自然地形を利用して、幾多の戦いを繰り広げております。

平成4年度には、木城町の城山公園整備事業によるメロディー時計台建設に伴い発掘調査が実施されました。その結果、竪穴状遺構、柱穴、石列などの遺構、土師器(はじき)といわれる杯、皿、小皿、青磁器、白磁器、陶器などの遺物が確認されました。これらの遺物の時期は、戦いが繰り広げられた時期に該当し、当時の戦いの状況がより理解することができます。
※現地解説版より

メロディー時計台



腰郭




第一空堀跡


第二空堀跡

第三空堀跡

第四空堀跡

第五空堀跡

第六空堀跡

第七空堀跡

古戦場跡
耳川の戦い・高城川合戦場

2026/2最終訪問