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100名城・続100名城 55番
別称 千早城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 669.8m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別城郭
縄張山城
曲輪配置連郭式
築城者楠木正成
築城年元弘2年・正慶元年(1332年)
廃城年南北朝時代(1392年頃)
主な城主楠木氏
指定文化財国指定史跡

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 空堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:669.8m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

千早城(ちはやじょう)は、大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早に所在する霊峰・金剛山から北西に延びる急峻な痩せ尾根上(標高約673メートル、比高約170メートル)に築かれた中世山城跡である。国指定史跡、日本100名城に選定。元弘2年に楠木正成が下赤坂城・上赤坂城に続く詰城・最終防衛拠点として築城した。山頂の尾根筋を階段状に削平して本丸、二の丸、三の丸、出丸を一直線に並べた連郭式縄張を持ち、両側面は千丈谷などの深い断崖絶壁に囲まれた天険の要害を誇る。曲輪間は深い堀切で遮断され、随所に切岸や土塁、井戸跡が残る。城郭建築は残らないが、本丸跡には正成を主祭神として祀る千早神社が鎮座し、急峻な石段参道とともに当時の峻険な地勢を今に伝えている。

⚔️ 歴史的役割

鎌倉幕府打倒の導火線となった元弘の乱における最大の激戦「千早城の戦い(1333年)」の舞台として名高い。十万とも号する幕府軍の大軍に対し、正成はわずか千人足らずの手勢で城に立て籠もり、ゲリラ戦法と心理戦を展開した。わら人形に甲冑を着せて敵の矢を浪費させたり、崖を登る敵に大木や巨石を落とし、熱湯や糞尿を浴びせるなど奇策を尽くして幕府軍を翻弄。約100日間にわたり大軍を釘付けにして撃退した。この千早城での大勝利が引き金となり、新田義貞の挙兵や足利高氏(尊氏)の離反を呼び起こし、鎌倉幕府滅亡へと直結する歴史的転換点となった。南北朝期も南朝方の重要拠点として機能したが、明徳3年(1392年)の南北朝合一前後に畠山氏らに攻められ落城・廃城となった。

👀 見どころ

幕府の大軍を約100日間寄せ付けず撃退した天険の急崖と「本丸跡(現・千早神社境内)」、尾根筋を豪快に断ち割って敵の侵入を防いだ深い「堀切」および切岸・土塁遺構群、険峻な尾根に連なる二の丸・三の丸・四の丸(出丸)の連続曲輪群、籠城戦を支えた貴重な水源である「井戸跡」、山麓の金剛登山口から本丸へと続く500段超の急勾配な石段参道(登城道)、金剛山系中腹から河内平野を見下ろす雄大な展望、国指定史跡碑・日本100名城スタンプ設置所(金剛山麓まつまさ)・歴史案内板

🍲 ご当地グルメ

千早赤阪産しいたけ料理(焼きしいたけ・天ぷら)、金剛山豆腐料理(滝豆腐・豆乳鍋)、河内鴨料理(鴨そば・鴨鍋)、手打ちそば・うどん、富田林・南河内名物かすうどん


おいど攻城記録


🧭 周辺10km圏内の城郭(0城)

※半径10km以内に登録されている他の城郭はありません。

🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

近鉄長野線河内長野駅または富田林駅から南海バス(金剛山ロープウェイ前行き等)で約35〜40分「金剛登山口」下車、城跡(千早神社境内)まで登山参道を徒歩約25〜35分(南河内郡千早赤阪村大字千早・金剛山中腹尾根上、標高約673m、比高約170m)

車でのアクセス

阪和自動車道 美原北ICまたは美原南ICから国道309号および府道705号経由で南東へ車で約40分

駐車場

有(金剛登山口周辺有料駐車場等、普通車有料約200台)

📍 周辺地図

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