概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | 独立式 | 天守形式 | 層塔型 |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
新宮城(しんぐうじょう)は、和歌山県新宮市丹鶴三丁目に所在する熊野川河口南岸の断崖をなす独立丘陵・丹鶴山(標高約48メートル、熊野川水面からの比高約40メートル)に築かれた紀伊新宮藩水野家3万5千石の本拠たる近世平山水城跡である。「丹鶴城」「沖見城」とも称され、国の史跡、続日本100名城(167番)に選定。源頼朝の叔父・行家ゆかりの丹鶴姫の開創した丹鶴寺跡に、関ヶ原合戦後に入封した浅野忠吉が築城を開始し、元和5年(1619年)に入封した紀州藩付家老・水野重仲が天守台や石垣、城郭建築を完成させた。最高所の本丸を中心に鐘ノ丸、松ノ丸、出丸、二の丸を階段状・連郭状に配する。北面と東面を熊野川の雄大な天然の水堀と急峻な断崖に守られ、熊野川舟運と太平洋の海運を直結する水運要塞の構造を誇る。現在も本丸天守台や鐘ノ丸、松ノ丸を取り巻く壮大な切込接ぎ・打込接ぎ高石垣群が圧巻の姿で遺存し、丹鶴城公園として親しまれている。
歴史的役割
熊野地方統治の中枢および紀伊半島南東部の海上・河川交通を掌握する軍事・経済・物流の最重要拠点として機能した。慶長5年(1600年)、関ヶ原の軍功により紀伊一国を領した浅野幸長の重臣・浅野忠吉が南紀支配のために入城し築城。元和元年(1615年)の一国一城令に際しては、紀伊国南東端の要衝として特例で城郭存続が認められた。元和5年(1619年)、徳川頼宣の紀州入封に伴い、徳川家康の側近で紀州藩付家老の水野重仲(水野忠守の長男)が3万5千石で新宮に入部。重仲は城郭の拡張・石垣修築を進めるとともに、新宮城下町や熊野川舟運・木材集散体制を確立した。以後、明治維新まで水野氏10代が約250年間にわたり南紀の政治・産業・文化を統治した。明治6年の廃城令により建造物はすべて解体・払下げとなったが、熊野川の流路変遷や水害を耐え抜いた石垣群が完存し、南紀における近世城郭の到達点を今日に伝えている。
見どころ
本丸北端に堂々とそびえ三層天守が建っていた「天守台石垣」、本丸・鐘ノ丸・松ノ丸を取り囲む美しい打込接ぎ・切込接ぎによる壮大な「野積・布積高石垣群」、本丸入口に構えられた厳重な迎撃施設「本丸枡形虎口」および大石段、熊野川の舟運に直結し物資搬入路として機能した「水の手(水の手虎口・川湊遺構)」、熊野川と太平洋(熊野灘)の境界を一望し船の往来を監視した天守台からの大パノラマ、城跡直下に広がる熊野速玉大社や丹鶴姫伝説の地、新宮城跡の歴史・発掘資料を展示し続日本100名城スタンプが置かれた新宮市役所・新宮市観光案内所、国指定史跡碑・案内板
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
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