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100名城・続100名城 102番
別称 下ノ国館、洲崎要害、洲崎館跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 11.5m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別居館
縄張平城
曲輪配置単郭式
築城者蠣崎季繁
築城年享徳3年(1454年)
廃城年寛正3年(1462年)頃
主な城主蠣崎氏
指定文化財国指定史跡

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 空堀あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:11.5m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

洲崎館(すざきだて)は、北海道檜山郡上ノ国町字北村に所在する天の川河口北岸の砂丘・平野低地(標高約5メートル)に築かれた中世道南十二館の一つに数えられる居館跡である。国の史跡(上ノ国館跡のうち洲崎館跡)に指定。享徳3年に安東氏配下の武将・蠣崎季繁が蝦夷地経営の拠点として築城した。東西約65メートル、南北約70メートルのほぼ方形単郭の縄張を持ち、四周を幅約3〜4メートルの空堀(薬研堀)と土塁で囲繞し、木柵や門を構えていた。発掘調査では掘立柱建物跡、柵列跡、鍛冶遺構、井戸跡が検出され、中国産の青磁・白磁椀、国産の珠洲焼・越前焼、鉄器、古銭(永楽通宝等)が多数出土。平地居館としての脆弱性から、コシャマインの戦い以後に背後の山上に勝山館が築かれて拠点が移るまで、中世初期の和人支配・交易の中枢として機能した。現在は遺構の大半が埋め戻し保存され、史跡標柱が立つ。

⚔️ 歴史的役割

室町中期における和人勢力(渡党)の道南進出および日本海交易を統括する最前線政治・経済拠点として機能した。築城者の蠣崎季繁は茂別館主の安東家政らとともに津軽安東氏から蝦夷地支配を委ねられ、上ノ国(下ノ国)周辺の和人集落を束ねた。康正2年(1456年)の志濃里鍛冶屋での争端を契機に勃発したコシャマインの戦い(1457年)では、アイヌ軍の猛攻により道南十二館のうち10館が次々と陥落する中、洲崎館は茂別館とともに頑強に耐え抜いた。この時、若狭武田氏出身の客将・武田信広(季繁の養子、のちの松前藩祖)が弓矢でコシャマイン父子を射殺してアイヌ軍を撃退し、和人の危機を救った劇的な歴史舞台となった。戦後、平城である洲崎館の防御力不足を痛感した信広らは、より強固な山城である勝山館を新たに築いて本拠を移転。役割を終えた本館は寛正3年頃に廃城となった。

👀 見どころ

発掘調査成果に基づき形状が確認された館跡を方形に取り巻く「土塁」および「空堀(薬研堀)」痕跡、コシャマインの戦いにおいて武田信広がアイヌ軍を撃退した中世道南史の激動を物語る主郭平坦地、発掘で出土した中国陶磁や鍛冶炉跡の遺物(勝山館跡ガイダンス施設に展示・保管)、天の川河口の良好な湊の地形を実感できる平野部の立地景観、信広と季繁の居城変遷(花沢館・洲崎館・勝山館)を一体的に辿るガイダンス案内板、国指定史跡碑(上ノ国館跡・洲崎館跡標柱)

🍲 ご当地グルメ


おいど攻城記録


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🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

JR江差線廃止代替バス(函館バス・木古内江差線)で道南いさりび鉄道木古内駅から約60分、または江差ターミナルから約20分「上ノ国病院前」または「大留」下車徒歩約10分(檜山郡上ノ国町字北村・天の川河口北岸の海岸平野部一帯、標高約5m、比高約0m)

車でのアクセス

函館江差自動車道 木古内ICから国道228号経由で日本海側へ西へ車で約45分、または江差町中心部から車で約15分

駐車場

有(上ノ国町総合福祉センター駐車場利用、無料約30台)

📍 周辺地図

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