概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | 独立式 | 天守形式 | 層塔型 |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | あり(彰古館・模擬隅櫓) |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | あり(大手門復元・櫓門) |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | あり(大手門脇復元土塀) |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | あり(元:田辺城城門、先:市内明倫小学校正門・寺院山門等伝承) |
| 遺構 | 水堀あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
田辺城(たなべじょう)は、京都府舞鶴市字南田辺に所在する舞鶴湾奥・高野川水系低湿地(標高約4メートル)に築かれた丹後田辺藩(牧野氏3万5千石)の居城(平城)跡である。通称「舞鶴城(ぶかくじょう)」。舞鶴市指定史跡。織田信長の命により丹後を平定した細川藤孝(幽斎)・忠興父子が天正8年に築城した。本丸を中心に二の丸、三の丸を同心円・梯郭状に配し、高野川や伊佐津川の分流を外堀に取り込んだ堅固な平水城構造を持つ。慶長5年(1600年)の関ヶ原前哨戦「田辺城の戦い」の舞台として知られ、細川氏転封後は京極高三、寛文8年(1668年)以降は牧野親成が入封し幕末まで存続した。明治の廃城令で建造物は破却されたが、昭和15年(1940年)に二層の隅櫓(彰古館)、平成4年(1992年)に堂々たる木造大手門(舞鶴公園展示施設)が復元され、本丸天守台石垣や水堀、心字池庭園が良好に遺存している。
歴史的役割
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し、日本文学史・政治史を揺るがす一大劇戦「田辺城の戦い」が展開された歴史的城郭である。徳川家康の会津征伐に従軍した細川忠興の留守中、西軍の石田三成方に呼応した福知山城主・小野木重勝ら西軍1万5千の大軍が田辺城を完全包囲した。守る細川幽斎は城兵わずか500名余で籠城し、約50日間にわたる猛攻を耐え抜いた。古今和歌集の秘伝「古今伝授」の唯一の継承者であった幽斎の討死を憂慮した後陽成天皇が勅使を派遣し、勅命によって包囲軍が退去・開城したことで文化の断絶が回避された。この籠城戦により西軍1万5千もの大軍が関ヶ原の本戦に参戦できず、東軍勝利を決定づける軍事的大功績となった。近世初頭の武威と公家文化が交錯した戦国屈指の攻防戦の舞台である。
見どころ
木造二階建ての威容を誇り内部に細川幽斎・田辺城の歴史資料館を備えた総檜造りの「復元大手門(大手櫓門)」、昭和15年に建てられた二層の模擬隅櫓「彰古館(舞鶴城のシンボル)」、野面積みの古拙な石積みを明瞭に残す「本丸石垣」および「天守台跡」、大手門前に巡らされ往時の水城の面影を伝える「外堀(水堀)」、幽斎の風流を今に伝える本丸跡の「心字池(回遊式庭園跡)」、城郭内堀の石垣遺構が露出展示された地下遺構見学スペース、城内に建立された「細川幽斎公像」、舞鶴市指定史跡碑・解説案内板
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
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