概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | 独立式 | 天守形式 | 層塔型 |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | あり(模擬天守・四万十市郷土博物館) |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。
概要
中村城(なかむらじょう)は、高知県四万十市中村に所在する四万十川下流左岸と後川の合流点西側に突出した標高約50メートル(比高約45メートル)の独立丘陵頂部に築かれた山城跡である。通称「為松城」。四万十市指定史跡。鎌倉期に土豪・為松氏が築いた砦を前身とし、応仁2年(1468年)に応仁の乱を避けて下向した前関白・一条教房を迎えて土佐一条氏の本拠として大規模に拡張された。山頂の本丸・二の丸・三の丸を尾根伝いに連ね、背後を深大な堀切で断ち切り、急峻な切岸と石垣を配した堅牢な連郭式縄張を持つ。関ヶ原合戦後は山内一豊の弟・山内康豊が2万石で入城して近世城郭へ改修したが、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となった。現在は「為松公園」として整備され、本丸跡に三層四階の天守閣風建築(四万十市郷土博物館)が建ち、石垣や堀切、空堀、土塁、井戸跡が良好に残る。
歴史的役割
土佐一条氏五代百余年にわたる「小京都・中村」繁栄の軍事・政治中枢であり、戦国期における南海道・四国西南地域の覇権を巡る激闘の舞台となった。一条氏は京都を模した碁盤の目状の町割(一条通、烏丸通など)を敷き、公家文化を花開かせた。天正元年(1573年)に内紛から第5代当主・一条兼定が追放されると、長宗我部元親が南下して中村城を接収。元親の弟・吉良親貞、次いで香川親和が城主となり幡多郡統治の拠点とした。関ヶ原合戦後に土佐一国を拝領した山内一豊は、分国統治の要として弟の山内康豊を中村城に配して幡多郡支配を固めさせた。慶長18年(1613年)に藩主・山内忠義の治世下で中村藩が分立するが、元和元年に幕府の一国一城令により廃城とされ、陣屋町へと移行した。公家文化と武家統治が融合した稀有な歴史的意義を有する四国屈指の中世城郭である。
見どころ
本丸跡にそびえ土佐一条氏や中村の歴史・民俗資料を展示する天守閣様式の「四万十市郷土博物館(模擬天守)」、本丸・二の丸周辺に明瞭に遺存する山内氏改修期の「打込接ぎ石垣」および「野面積み石垣」、主郭間を深く鋭利に断ち割る圧巻の「堀切」および「空堀」・「土塁」遺構、山腹を削り落とした険峻な「切岸」と籠城時の水源であった「井戸跡」、山頂曲輪から眼下に広がる碁盤の目状の中村城下町(土佐の小京都街並み)・清流四万十川・後川の合流点景観、為松公園内に咲き誇る約500本の桜並木、登城道沿いに建立された中村城跡(為松城跡)碑・詳細な解説案内板
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
※半径10km以内に登録されている他の城郭はありません。