概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
金ヶ崎城(かねがさきじょう)は、福井県敦賀市泉・金ヶ崎町に所在する敦賀湾東岸に突き出た標高約86メートル(比高約80メートル)の海食崖丘陵(金ヶ崎山)頂部に築かれた中世山水城・海城跡である。国の史跡。平安末期に平通盛が木曾義仲に備えて築いたことに始まると伝わる。北・西・東の三方を海と断崖に囲まれた天険の要害で、最高所の本丸(主郭)を中心に月見御殿、二の木戸、三の木戸、天神カ尾などの曲輪を尾根沿いに連郭状に配置。背後の手筒山城方面へと続く南側尾根を深大な堀切や空堀、竪堀で遮断し、主郭を取り巻く土塁、切岸、籠城用井戸跡が明瞭に残る。南北朝時代の新田義貞と尊良親王による悲劇の籠城戦「金ヶ崎の戦い(1337年)」、および戦国時代の織田信長・木下藤吉郎(豊臣秀吉)・徳川家康による決死の撤退劇「金ヶ崎の退き口(1570年)」の舞台として日本史上極めて名高い。
歴史的役割
古代より日本海海運と畿内を結ぶ敦賀津(敦賀港)を直接掌握・睥睨する軍事・交通の最重要拠点として、二度にわたる歴史的大事件の舞台となった。延元元年(1336年)、足利尊氏と対立した新田義貞は後醍醐天皇の皇子・恒良親王と尊良親王を奉じて当城に籠城。足利方の斯波高経らによる数ヶ月の兵站遮断・兵糧攻め(金ヶ崎の戦い)を受け、翌延元2年に尊良親王や新田義顕ら将兵約300名が自刃して落城した。時代が下り元亀元年(1570年)、織田信長は徳川家康とともに越前の朝倉義景を討つべく出陣し当城を攻略。しかし突如、同盟関係にあった北近江の浅井長政が裏切って背後を急襲。絶体絶命の危機に陥った信長は撤退を決断し、殿(しんがり)を任された木下藤吉郎や明智光秀、池田勝正らが当城を拠点に朝倉軍の追撃を命がけで防ぎ切った(金ヶ崎の退き口)。信長が天下統一への道を繋いだ起死回生の地である。
見どころ
敦賀湾を見下ろす山頂に削平された広大な「本丸跡(主郭)」および尊良親王が陣所としたと伝わる「月見御殿跡」等の連郭式曲輪群、尾根続きからの進攻を鋭利に遮断する深大な「堀切」および「空堀」・「竪堀」遺構、主郭縁辺部に遺存する防衛用の「土塁」および海食崖を削り落とした険峻な「切岸」、長期籠城を支えた山頂付近の「古井戸跡」、山頂展望所から眼下に広がる青い敦賀湾・敦賀港の赤レンガ倉庫・気比の松原・遠く敦賀半島を一望する大パノラマ眺望、南麓に鎮座し恒良親王・尊良親王を祀る「金崎宮」境内の尊良親王御墓所、国指定史跡標柱・詳細な縄張解説案内板
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
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