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100名城・続100名城 -
別称 塚口要害、塚口館、塚口寺内町、城の内、塚口城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 5.2m
最終訪問日 2026-10-22

📋 概要スペック

種別城郭
縄張平城
曲輪配置環濠式・単郭式
築城者細川高国(瓦林正道、三好長慶)
築城年室町時代後期(永正年間・1500年代初頭細川高国築城、天文・永禄期改修)
廃城年天正6年(1578年)織田信長による有岡城攻め(塚口付城構築)に伴い改変・廃城
主な城主細川氏、三好氏、織田氏
指定文化財指定なし

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 水堀あり・空堀あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:5.2m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

塚口城(つかぐちじょう)は、兵庫県尼崎市塚口本町一丁目に所在する猪名川西岸の沖積平野自然堤防微高地(標高約6メートル)に築かれた中世屈指の平城・環濠城郭跡である。室町幕府管領・細川高国が越水城の支城・前線拠点として築城したことに始まると伝わり、後に一向宗(浄土真宗)寺院の正玄寺(塚口御坊)を中心とする自治的要塞集落「塚口寺内町」へと発展した。東西約250メートル・南北約270メートルの方形区画を主郭(城の内)とし、周囲を幅約5〜8メートルの深い水堀と高さ約2〜3メートルの重厚な土塁で囲繞。東西南北に虎口門(東門・西門・南門・北門)を設けた厳重な環濠防御構造を誇った。現在は閑静な住宅街となっているが、旧村の東端・北端に土塁状の起伏や切岸、外周の水路に水堀跡が明瞭に残り、尼崎市教育委員会設置の解説案内板や標柱が建ち中世環濠集落・城館の輪郭を色濃く留めている。

⚔️ 歴史的役割

摂津国中枢を縦断する西国街道の脇街道(有馬道・伊丹道)および猪名川・神崎川水運の要衝に位置し、戦国期の細川氏内衆抗争(両細川の乱)から三好氏支配、信長の摂津平定に至る軍事・兵站拠点として機能した。永正17年(1520年)の等順寺の戦い等で細川澄元・三好之長方に対抗する高国方の重要拠点となり、天文年間には三好長慶の勢力下に入った。天正6年(1578年)の荒木村重による織田信長への反叛(有岡城の戦い)では、信長方が有岡城(伊丹城)包囲のために築いた付城網の一翼(塚口砦)として接収・再編され、織田軍の丹羽長秀・蜂屋頼隆らが布陣して有岡城と尼崎城の補給路遮断に決定的な役割を果たした。乱の終結後は城郭としての機能を失い農村・在郷町へと復帰したが、環濠と土塁は江戸時代を通じて村落の自衛施設として維持された。中世武士の平城から寺内町・惣村環濠集落への展開を示す貴重な史跡である。

👀 見どころ

旧塚口寺内町の東端(旧東門付近)に明瞭に遺存する防衛用の「土塁」および一段高く盛り上がった「切岸」地形、旧集落外周を今なお巡り堀の流路をそのまま留める「水堀(水路・空堀痕跡)」、中心部に位置し寺内町の本坊となった「正玄寺境内」および中世城内の平坦面遺構、旧村の北東・南西・東門跡に設置された尼崎市教育委員会の「塚口城跡解説案内板」および標柱、集落を守護した「塚口神社境内」と生活水源の「古井戸跡」、中世の地割・町割(遠見遮断の屈曲した路地・食違い虎口構造)をそのまま色濃く残す歴史的街並み景観

🍲 ご当地グルメ


おいど攻城記録


🧭 周辺の城郭マップ

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🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

阪急神戸線・伊丹線塚口駅北口から徒歩約3〜5分、またはJR宝塚線(福知山線)塚口駅西口から徒歩約10分、正玄寺・塚口神社および旧塚口寺内町一帯(尼崎市塚口本町一丁目・二丁目、猪名川西岸平野微高地、主郭標高約6m、平地比高約1〜2m)

車でのアクセス

名神高速道路 尼崎ICから県道13号(尼崎池田線)経由で北へ車で約8分、または阪神高速11号池田線 塚本出入口から約15分

駐車場

なし

📍 周辺地図

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