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近江国 安土城 [ ADUCHI CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナアヅチジョウ
別称なし
スタンプ設置場所安土城天主信長の館 09:00-17:00(月曜定休)
安土城郭資料館 09:00-17:00(月曜定休)
曲輪配置連郭式
城郭種類山城
築城者織田信長
築城年1576年
廃城年1585年
主な城主織田氏、明智氏
指定史跡特別指定
標高196.8 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構あり
現状史跡安土城址
駐車場安土城駐車場
最寄り駅JR 安土駅


概要・現地案内板

安土城の築城は、織田信長が武田勝頼を長篠の合戦で打ち破った翌年、天正4年(1576)に始まります。
築城にあたっては、機内・東海・北陸から多くの人夫が徴発され、当代最高の技術を持った職人たちが動員されました。
まさに安土城は天下統一の拠点となるべく当時の文化の粋を集めたものだったのです。
築城開始から三年後の天正7年には天主が完成して信長が移り住みました。
しかし、その三年後天正10年に本能寺の変で信長が殺されると、城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天主・本丸は焼失してしまいます。
それでも安土城は織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護の元で信長の息子信雄や孫の三法師が入城を果たし、信長の跡を継ぐものであることをアピールします。
しかし、天正12年小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉を迎え、翌年安土城はその役目を終えて廃城となるのです。
その後江戸時代を通じて信長が城内に建てた摠見寺がその菩提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けていくことになります。

※現地案内板より


城犬のおいど 攻城記録


駐車場


大手道


石仏


伝羽柴秀吉邸跡


ここは、織田信長の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉が住んでいたと伝える屋敷の跡です。大手道に面したこの屋敷は、上下2段に分かれた郭(造成された平地)で構成されています。下段郭の入口となるこの場所には、壮大な櫓門が建っていました。1階を門、2階を渡櫓とする櫓門は、近世の城郭に多く見られるものですが、秀吉邸の櫓門はその最古の例として貴重です。

門内の石段を上ると、馬6頭を飼うことのできる大きな厩が建っています。武士が控える遠侍と呼ばれる部屋が設けられている厩は、武士の生活に欠かせない施設です。下段郭には厩が1棟あるだけで、それ以外は広場となっています。背面の石垣裾に設けられた幅2m程の石段は、上段郭の裏手に通じています。上段郭は、この屋敷の主人が生活する場所です。正面の入口は大手門に面して建てられた高麗門です。その脇には重層の隅櫓が建ち、防備を固めています。

門を入ると右手に台所があり、さらに進むと主屋の玄関に達します。玄関を入ると式台や遠侍の間があり、その奥に主人が常住する主殿が建っています。さらにその奥には内台所や遠侍があります。3棟の建物を接続したこの建物群の平面積は366㎡あり、この屋敷では最大の規模を持っています。戦国の世が終わりを迎えようとする16世紀末の武家住宅の全容を明らかにした伝羽柴秀吉邸跡の遺構は、当時の武士の生活をうかがい知ることのできる、誠に貴重なものといえます。
※現地説明板より

伝羽柴秀吉邸復元図


伝前田利家邸跡の虎口


一般に屋敷地の玄関口に当たる部分を城郭用語で「虎口」と言います。伝前田利家邸跡の虎口は、大手道に沿って帯状に築かれた石塁を切って入口を設け、その内側に枡形の空間を造った「内枡形」と呼ばれるものです。発掘調査の結果、入口は南側の石塁及び門の礎石ともに後世に破壊されていて、

その間口は定かではありませんが、羽柴邸と同じ規模の櫓門が存在していたと推定されます。門をくぐると左手には高さおよそ6mにも及ぶ三段の石垣がそびえ、その最上段から正面にかけて多聞櫓が侵入した敵を見下ろしています。また、一段目と二段目の上端には「武者走り」という通路が設けられ、戦時に味方の兵が多聞櫓よりもっと近くで敵を迎え討つことが出来る櫓台への出撃を容易にしています。

正面右手の石垣は、その裏にある多聞櫓へ通じる石段を隠すために設けられた「蔀の石塁」となっています。入口の右手は隅櫓が位置しており、その裾の石垣が蔀の石塁との間の通路を狭くして敵の侵入を難しくしています。このように伝前田利家邸跡の虎口はきわめて防御性が高く、近世城郭を思わせる虎口の形態を安土城築城時にすでに取り入れていたことがわかります。
※現地説明板より

遠景山摠見寺


大手道跡の石仏


この石仏は、築城の際に大手道の石材として使われたものです。城普請に使用する多くの石材は、近郊の山々から採取しましたが、石仏や墓石等は、本来は信仰の対象となっていたものですが、築城の経緯を示すために発見当時の状態で保存しています。趣旨をご理解の上、見学して下さい。
※現地説明板より

黒金門跡


ここは、安土城中枢部への主要な入口の一つである黒金門の跡です。周囲の石垣をこれまで見てきた石塁や郭の石垣と比べると、使われている石の大きさに驚かれることでしょう。平成5年度の発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災にあっていることが分かりました。多量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋等の金箔瓦も含まれていました。

伝 森蘭丸邸跡


壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、信長が選ばれた側近たちと日常生活を送っていた、安土城のまさに中枢部となります。高く聳える天主を中心に本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成されるこの一帯は、標高が180mを越え、安土山では最も高いところにあります。東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立しています。高石垣の裾を幅2~6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれています。

この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口道・七曲口道からの入り口なのです。安土城中枢部の建物は本能寺の変の直後に全て焼失したため、炎の凄まじさを残す石垣と礎石によって往時の偉観を偲ぶことができるだけです。しかし、400年以上にわたって崩れることなく、ほぼ原型を保ってきた石垣の構築技術の高さに驚かされます。様々な表情を見せる安土城の石垣のすばらしさをご鑑賞下さい。

平成7~12年度の発掘調査から、この一帯の建物群が多層的に結合されている可能性が出てきました。ここから天主に至る通路や天主から八角平への通路の上には覆い被さるように建物が建ち並び、当時の人々は地下通路を通って天主へ向かうような感を覚えたのではないでしょうか。
※現地説明板より

織田信雄公四代供養塔


仏足石


この仏足石は大手道石段などに見られる石仏と同様、築城当時単なる石材として集められ、石垣に使われて居た様で、昭和の初期、登山道整備工事の時この附近の崩れた石垣の中から発見されました。仏足石は、お釈迦様の足跡を表現したもので、古代インドでは、仏像に先立ち崇拝の対象とされて居ました。

我が国では、奈良の薬師寺のものが現存する最古(奈良時代 国宝級)の物として有名ですが、此の仏足石は中世の数少ない遺物として大変貴重なものです。
※現地看板より

二の丸跡


信長公本廟


本丸跡


天主台跡


摠見寺跡


三重塔


二王門


百々橋口


百々橋


スタンプ設置場所


赤こんにゃく


2020/1最終訪問


城郭周辺地図

滋賀県近江八幡市安土町下豊浦

安土城駐車場のGoogleMAP


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