概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | あり(元:西の丸城門、先:市内日牟禮八幡宮脇/願成就寺等伝承) |
| 遺構 | 水堀あり・空堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
スタンプ設置場所(157番)
赤色立体地図・微地形判読
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概要
八幡山城(はちまんやまじょう)は、滋賀県近江八幡市宮内町に所在する琵琶湖東岸に聳える独立峰・八幡山(鶴翼山、標高約271メートル、比高約185メートル)山頂部に築かれた織豊期の近世山城跡である。「近江八幡城」とも称され、近江八幡市指定史跡、続日本100名城(156番)に選定。天正13年に豊臣秀吉の甥・豊臣秀次が安土城廃城後の新たな近江支配の拠点として築城した。山頂に本丸を置き、二の丸、西の丸、北の丸、出丸を配した連郭式山城で、安土城から移築・流用された石材を含む豪壮な野面積み高石垣群が山頂周囲を厳重に取り囲む。山麓には碁盤目状の城下町が整備され、城下と琵琶湖を直結する「八幡堀」を開削して運河網を構築。楽市楽座令を敷いて安土城下の商人・職人を移住させたことで、近江商人の発祥の地となった。現在は本丸跡に秀次の母・日秀尼が菩提を弔うため建立した村雲御所瑞龍寺門跡が建ち、八幡堀とともに往時の繁栄を伝えている。
歴史的役割
安土城焼失後の近江支配の中枢および琵琶湖水運・陸上街道を掌握する軍事・経済拠点として機能した。築城者の豊臣秀次は近江43万石の領主として城下町と八幡堀を整備し、近世商業都市としての基礎を確立した。天正18年(1590年)の小田原征伐後に秀次が尾張清洲100万石へ移封となると、代わって京極高次が2万8千石で入城した。しかし文禄4年(1595年)、秀吉の後継者問題を巡り関白・豊臣秀次が謀反の疑いをかけられて高野山で切腹(秀次事件)。これに伴い八幡山城も廃城令が下されて破却され、わずか10年でその歴史の幕を閉じた。城郭の建築遺構や石材の多くは、秀吉が新たに築いた伏見城や膳所城、彦根城などへと転用・移築された。山頂の壮大な野面積み石垣群は破城を耐え抜いて現存し、山麓の八幡堀および城下町は国の重要伝統的建造物群保存地区として極めて高い歴史的価値を保持している。
見どころ
豊臣秀次時代に安土城石材などを活用して築かれた荒々しく雄大な「本丸・西の丸野面積み高石垣群」、本丸中枢の虎口を厳重に防御した「本丸枡形虎口」遺構、秀次の母・日秀尼が京都から秀次の菩提を弔うため昭和36年に移築した本丸跡の「村雲御所瑞龍寺門跡」、城郭防御と琵琶湖舟運の運河を兼ねて城下に開削された風情ある「八幡堀(水堀)」、西の丸展望台から見渡す西の湖・安土城跡・琵琶湖・比良山系の絶景、北の丸跡から望む鈴鹿連峰と近江平野の眺望、山麓に鎮座し歴代領主が庇護した「日牟禮八幡宮」、近江商人の町並みと一体となった景観、近江八幡市指定史跡碑・案内板
ご当地グルメ
概要・現地案内板
1566年、豊臣秀吉のおいとして出生。
1585年、43万石の領主になり、八幡山城を築き、城下町を開く。
1590年、尾張・清州城に転封。
1591年、秀吉隠居後、秀吉の後継者として豊臣姓を名乗り、関白に任官。
1595年、謀反を理由に関白職を奪われ高野山で切腹。
八幡山城は廃城となる。
※現地案内板より
城犬のおいど 攻城記録
八幡山ロープウェー
ロープウェーで山頂(271.9m)に登り、歴史に彩られた大パノラマを満喫。眼下には基盤目状に造られた城下町とそれを取り巻く水郷、北側に広がる琵琶湖と対岸の比良の山々少し東には安土山、西には近江富士…。山頂にはかつて、戦国大名で関白となった豊臣秀次が築いた八幡城があった。現在は秀次の菩提寺「瑞龍寺」が置かれている。
※現地案内板より


山頂駅

スタンプ設置場所
続日本100名城スタンプ設置場所


お願い地蔵尊



山門


村雲御所瑞龍寺門跡
瑞龍寺は八幡山本丸跡の石垣の上に建つ。日蓮宗唯一の門跡寺院で、秀次の母で秀吉の姉の日秀尼が文禄5年(1596)、京都・嵯峨野の村雲に創建したため、村雲御所とも呼ばれる。寺は、天明8年(1788)に全焼したが、約30年後に再興され、昭和36~38年に京都西陣から秀次ゆかりのこの地に、山門や本堂などが移築されました。

秀次を弔う線香の香りが漂う本堂は、屋根に菊の御紋が入った瓦が葺かれ、門跡寺院としての威厳を示している。歴代門跡が客と対した拝謁の間には、金箔地に鳳凰が描かれた狩野派の作とされるふすま絵もあり、格式の高さをうかがわせる。
※現地案内板より

開山塔

社務所

村雲御所(拝観料300円)
このお寺は、秀次公のお城、八幡山城本丸跡に建つ日蓮宗では唯一の門跡寺院(皇族・公家が住職を務める寺院)です。文禄4(1595)年、秀次公が高野山で非業の最期を遂げられ、弟秀勝も秀吉の朝鮮出兵で戦死したため、生母智の方(秀吉の姉)は我が子達の菩提を弔うために出家して瑞龍院日秀尼となられ、後陽成天皇の代の勅願所となったお寺です。

もとは京都の村雲の地にあったので村雲御所と呼ばれ、昭和36年に秀次公ゆかりのこの地に移築されました。
※現地説明板より

本堂正面鬼瓦


関白豊臣秀次卿銅像原型

仏間





北の丸



ハート型モニュメント


西の丸



二の丸


展望館


白雲橋
近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区

八幡堀
此の堀割は天正13年(西暦1585)豊臣秀次が八幡城を築城・それと同時に構築されたもので東は北之庄の沢より西は南津田長命寺湖岸近く外湖を結ぶ全長約5㎞・その全体を「八幡浦」と称した。今日では八幡堀といわれているが、八幡の城下町と琵琶湖を結ぶ一大運河であり大津・堅田とならんで琵琶湖の三大港の一つにかぞえられていた。

湖上を往来する北陸と関西の物資を満載したすべての船はこの八幡浦に寄港し大いに賑わい、今も残る堀沿いの土蔵・倉庫群は往時の繁栄を物語っており、その重要性は近江商人の活躍を絶対的なものにしたのである。この堀割こそが、近江商人の代表八幡商人を生み出した源流である。
※現地看板より


2020/1最終訪問
