城郭DATA -CASTLE DATA- 
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | クルリジョウ |
| 別称 | 雨城、霧降城、浦田城 |
| スタンプ設置場所 | - |
| 曲輪配置 | 連郭式 |
| 城郭種類 | 山城 |
| 築城者 | 武田信長 |
| 築城年 | 1456年 |
| 廃城年 | 1872年 |
| 主な城主 | 上総武田氏、里見氏、後北条氏、大須賀忠氏、土屋氏、黒田氏 |
| 指定史跡 | 未指定 |
| 標高 | 145.5 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 復元建造物 | あり |
| 遺構 | あり |
| 現状 | 久留里城跡 |
| 駐車場 | 久留里城址駐車場(無料) |
| 最寄り駅 | JR 久留里駅 |

概要・現地案内板
久留里城は「城成就して、3日に一度づゞ雨降ること21度なりしかば」(『久留里記』)と言う説から、別名を「雨城」と言います。
戦国期の16世紀中頃、西上総地方は真里谷武田氏の勢力下にあり、久留里城もその一族の居城でした。天文年間(1532~55)の後半になると、安房の里見義堯は上総に進出し、本拠地を久留里城に移します。
永禄七年(1564)、下総の国府台の戦いで、里見氏は北条氏に敗北、久留里城も一時、北条方の手に落ちています。
しかし、2年後、里見氏は久留里城を奪還し、上総の大半と下総の一部を制圧します。
その後、北条氏の勢力に押され、天正五年(1577)、里見義弘は北条氏と和睦します。
義弘の死後、家督を継いだ里見義頼は安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番が置かれています。
天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、里見氏は勝手な行動を取ったという理由から、上総の所領を没収されました。
以後、関東は徳川氏の支配となり、久留里城には大須賀忠政が3万石、慶長7年(1602)には、土屋忠直が二万石で入城します。
江戸の土屋邸で生まれた後の儒学者新井白石は、土屋家2代目の利直に仕え、18~21歳までの青年期をこの久留里で過ごしています。
3代目の頼直の時、お家騒動が起こり、延宝7年(1679)、領地召し上げ、廃城となります。
約60年後の寛保2年(1742)、黒田直純が3万石の藩主となり、幕府から5千両を拝領し、3年の歳月をかけ城を再興しています。
黒田氏の治世は、初代直純から約130年間続き、9代直養の時、明治維新を迎え、明治5年(1872)、城の建物は解体され、久留里城の幕は閉じられます。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
戸張門跡

駐車場











天神曲輪
城郭全体をいう場合もありますが、ここでは城内の平らな一区画を指し、城の付属施設を建てたり、兵を配備するために使われました。
※現地看板より


男井戸・女井戸
伝説によると、この二つの溜め井戸は、奈良時代の僧 良弁によって掘られ、「金剛水」「胎蔵水」と呼ばれたそうです。戦国期、この場所に里見義堯が城を築くと、敵対する北条氏がいく度か来襲しますが、この井戸により籠城にも耐えることができました。江戸時代、藩主の黒田直亨の頃から、藩士の結婚式の際に、新郎・新婦がこの水を飲み、夫婦の誓いをかわしたと言われています。
※現地看板より

波多野曲輪



天守台跡
この土壇は、寛保3年(1743)から延享3年(1746)にかけて、黒田直純が城を再築した際築いたと思われる天守の跡です。礎石群は、昭和52年に実施した発掘調査によって検出され、きわめて貴重な遺構であることが確認されました。

礎石の配列は内側と外側の二重に配され、内側は2間(3.6メートル)×2間の正方形、外側は3間(5.4メートル)×五間半(9.9メートル)の長方形を呈し、絵図とほぼ一致しています。これらの礎石の配列状況から判断して、建物は二層二階であったと推定され、近世初期の天守の様式である望桜風天守に類似していたように思われます。 礎石は、二の丸から切り出した砂岩を使用しており、いずれも赤褐色で鋸引きの跡が残っています。

また、砂岩の中に一部白色のシルト岩(砂と粘土との中間の細かさを有する岩)がみられますが、これらは土台石として用いられたと考えられます。天守台の構造は、上面に厚さ10センチ程度の粘土を敷き詰め、その下に径2~4センチの石を10センチ程並べ、次に若干大きめの石を地山まで詰めているものと推定されます。また、上部の周囲に回らされている瓦は、土圧から台を守るための措置であると思われます。
※現地看板より

丹生廟遺跡

立ち入り禁止
令和5年5月11日の地震(震度5弱)により、久留里城天守閣の鯱瓦及び屋根瓦を損傷しており、瓦が落下する可能性があるため、天守閣付近への立ち入り禁止としております。復旧については、本市で他に実施すべき事業を優先しつつ、計画的に進めてまいりますので、ご理解くださいますようお願いいたします。
※現地看板より

出入口
注:現在閉館しています。





土塀跡
再建した天守のほぼ裏側から検出された土塀跡。寛保3年(1743)の絵図によれば、本丸の土塀は、前面のみしか図示されていませんが、発掘調査によって後側にも土塀が回っていたことが確認されました。礎石に使用されている石は、ほとんどがシルト岩(砂と粘土との中間の細かさを有する岩)で、きわめて密に敷き詰められています。

本丸の周囲には小高い帯状の土塁が残っており、表面に漆喰や粘土の塊が認められることから、これらは絵図に示されているように高さ6尺(1.8メートル)、瓦葺き、塗龍の土塀が崩壊したものであると考えられます。
※現地看板より

弥陀曲輪


二の丸跡

君津市立久留里城址資料館


新井白石銅像

井戸堀り櫓
明治の中頃、君津地方で考案され、飲料水、かんがい用水はもとより、石油や温泉の発掘にも使用された「上総掘り」方式の井戸掘り櫓です。なお、現在でも東南アジアやアフリカの諸国で使用されています。
※現地看板より

長屋塀跡
この長屋塀(復原)は、二の丸の西側に位置し、眼下に三の丸を望む場所に建てられていました。本来は、多門櫓に近い性格の建物ですが、寛保年間の絵図に「長屋塀」と記されているところから、この名称を使っています。長屋塀は、細長い形をした長屋風の建物で、用途は主として諸道具を収納する倉庫に用いられていたと思われます。

調査の際確認した礎石は、全体の約二分の一程度でしたが、配列状況から判断して、長屋塀の規模は絵図に記載されている通り、ほぼ10間(18メートル)×二間半(4.5メートル)であると推定されます。礎石のつくりは、天守台に比べてかなり粗雑で石質も悪く、ノミによる整形の跡がみられます。これらの礎石は、ほとんどが赤褐色の砂岩で、二の丸から切り出した石を使用しています。また、礎石からおよそ一尺(30センチ)程離れたところに、軒に沿って瓦が立てた状態で埋められていますが、これは、軒からの雨だれを受ける「雨落ち溝」の役割を果たしたものと考えられます。
※現地看板より

薬師曲輪

三の丸

里見北条古戦史





お玉が池
久留里城の二之丸は、水源がなく不便な場所でした。城主の里見義堯は、家臣の兵馬に池を掘るように命じました。ある時、兵馬が池を掘っていると、兵糧庫が焼失する事件が起こり、火の不始末の疑いで、兵馬は捕らわれの身となります。城将小川秀政の娘の「お玉」は、これを哀れんで、かわりに池を掘りはじめますが、兵馬は打ち首となってしまいます。

その後、この疑いが解けると、お玉は髪を切り、兵馬を弔ったそうです。
※現地看板より

久留里曲輪
防御・攻撃のため、造成し設けた平場の区画。近世の本丸(中世は「本城」「実城」と言った)など主要な曲輪の外側にあるものを「腰曲輪」という。
※現地看板より

堀切跡





君津市森林体験交流センター

2025/3最終訪問
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