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武蔵国 小机城 [ KOZUKUE CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナコヅクエジョウ
別称飯田城、根古屋城
スタンプ設置場所続100名城 第125番
横浜市城郷小机地区センター 09:00-21:00
曲輪配置連郭式
城郭種類平山城
築城者上杉氏
築城年永享年間
廃城年1590
主な城主上杉氏、長尾氏、笠原氏、北条氏
標高38.8 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構土塁、空堀
現状小机城址市民の森
駐車場付近に駐車場内:近隣の有料駐車場
最寄り駅JR東日本横浜線 小机駅

概要・現地案内板

①小机城について

 築城の年代は明らかではありませんが、おそらく、このあたりが開けた十二世紀遺構ではないかと思われます。その頃は、このあたりは上杉氏の勢力下にあり、西方には、その支配下の榎下城があったことから、それとかかわりのある城と思われます。
 その後、山内上杉家の家臣長尾景春が、家督争いに端を発して反乱を起こした時、景春に味方した矢野兵庫助らが城に立てこもり、北方の亀之甲山(現在の新羽町亀ノ甲橋付近)に帯陣した上杉方の太田道灌の率いる軍とたたかいました。
 城は1478年(文明十年)攻め落とされ、上杉氏もやがて北条早雲に追われ、小田原北条の領地となり、四十年間廃城となっていました。
 1524年(大永四年)一族の北条氏尭の城となり、笠原越前守信為を城代として再考しました。小机は地理的に、江戸、玉縄、榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、この地は以後軍事、経済の両面で極めて重要な役割を果たすことになります。
 豊臣秀吉が小田原城を攻め落とし、やがて小田原北条氏が滅び、四代目城主の笠原弥次平衛重政が徳川の家臣として200石の知行を与えられ、近くの台村(緑区台村)に住むことになり、小机城は廃城、その歴史を閉じることになりました。

②小机城想定図

小机城の縄張り
半島形の突出た広陵の上部を大きく平らに削り、一列に三つの程度の曲輪を置き、その並んでいる曲輪の側面に腰曲輪を築きます。また、城郭全体を二重の土塁を空堀でぐるりとめぐらせます縄張で後北条氏特有の築城法と言えます。類例により後北条氏、後半の築城方式で、東京都、埼玉県など戦国期の広陵城郭の多くがこの型で県下では、茅ヶ崎城も典型といえます。
縄張と曲輪について
縄張とは、目的が定まった地が決定した後その広さを決定し、曲輪の配地、道の付け方、門の開き方、城主は武士が行いました。曲輪とは城を構成する区画、すなわち削平された地、それぞれ防備地帯、兵営の場、館の立地される場所をいいます。


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城攻め情報

 小机城は、鶴見川南岸にある台地の北端に築かれており、現在は市民の森として市により整備されている。城郭の主要部分は第三京浜の東側に集中している。
 登城口から上っていくと、目の前に大きな空堀が見えてくる。左に行くと西曲輪、右に行くと東曲輪があり、小机城の中心部となる。小机城には、この他にも大小様々な曲輪が配置されている。
 東曲輪に向かう左のルートを進んでいくと、幾つかの曲輪を過ぎて東曲輪に到着する。東曲輪は、標高38.1mの位置に設けられた曲輪で、主に北から来る敵に対して備えを行っていることが、曲輪に設置されている土塁からわかる。東曲輪に設置された土塁の最南端には、櫓台跡があり東曲輪は敵の迎撃のための曲輪と考えられる。
 東曲輪から西に向かうと、つなぎの曲輪が置かれており、東曲輪と西曲輪を分断する形となっている。つなぎの曲輪の役割は、東曲輪が陥落した場合に西曲輪への最後の防衛ラインとして利用されていたと考えられる。
 つなぎの曲輪から西の曲輪に入ると、枡形虎口が設置されており虎口を抜けた先に西曲輪が設置されている。西曲輪は、標高38.7mの位置に設けられており、東曲輪とほぼ変わらない高さとなる。因みにつなぎ曲輪は、標高39.9mあるのだ。西曲輪の周りには土塁が張り巡らされており、正方形に近い形となっている。
 西曲輪の南側にも虎口が設けられており、その先には土橋や曲輪が配されている。西曲輪のさらに西側第三京浜の西側にも曲輪が配置されており、一番高い場所は40mとなる。


城郭周辺地図

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