概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。
概要
津久井城(つくいじょう)は、神奈川県相模原市緑区太井・城山に所在する津久井湖(相模川)南岸の標高375メートル(比高約230メートル)の独立峰「城山」全域に築かれた中世山城跡である。神奈川県立津久井湖城山公園として整備されている。山頂の本丸・御手洗の池を中心に、尾根上に飯縄曲輪、宝ヶ池、家老屋敷などの曲輪が連郭式に連なり、北側斜面には巨大な堀切や竪堀群、屈曲する土塁、帯曲輪が重層的に配されている。山麓南東側には広大な根小屋(御所、居館跡)が置かれ、山頂の詰城と山麓の平時居館が一体化した「根小屋式山城」の典型例として日本城郭史上極めて高い価値を有する。近年の発掘調査では根小屋地区から礎石建物跡や石垣、石畳通路、枯山水風庭園遺構が検出されている。
歴史的役割
鎌倉幕府の有力御家人・三浦一族の三浦伯耆守が築いたと伝わり、戦国期には小田原北条氏の家臣・内藤氏(津久井内藤氏)が城主を務めた。甲斐武田氏の領国と接する相模国北西端の境目要害として位置づけられ、相模川の水運や甲州街道・津久井街道を監視する軍事拠点として機能した。永禄12年(1569年)の武田信玄による小田原侵攻の際には、内藤景祥が城を守備して武田軍の別働隊と交戦したと伝わる。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、徳川家康軍の攻撃を受け、城主の内藤直行らは小田原城に籠城したものの本城落城に伴い開城・廃城となった。北条氏の北関東・甲信境目を支えた代表的な拠点山城である。
見どころ
城山山頂の本丸・鐘撞堂跡および周囲を取り巻く急峻な切岸斜面、尾根筋を豪快に遮断する巨大堀切(大堀切・引橋跡)と斜面を落ちる竪堀群、山頂に水を湛える御手洗の池・宝ヶ池(水の手)、飯縄曲輪に残る土塁および石積遺構、南麓根小屋地区で復元・発掘展示されている御所居館遺構(礎石建物跡・庭園跡・石畳道)、パークセンターに常設された詳細な城郭復元模型とガイダンス展示、標高375mの山頂から津久井湖・相模川・丹沢連峰・丹沢山地・関東平野を一望する大パノラマ
ご当地グルメ
城犬のおいど 攻城記録
津久井城の築城は、鎌倉時代三浦半島一帯に勢力を誇っていた三浦氏の一族、津久井氏によると伝えられます。
戦国時代、小田原城を本城とした北条氏は16世紀中ごろまでには、相模・武蔵を領国とする戦国大名に発展しました。
そしてこの広大な領国を経営し、敵勢力から守るため本城の下に支城を設け、支城領を単位としする支配体制を作りました。
当時の津久井地域は甲斐国境に近く、領国経営上重視されており、津久井城(城主内藤氏)は有力支城のひとつとして重要な役割を果たしていました。
現在残っている遺構は16世紀に北条氏が整備したものです。
※現地看板より
駐車場

パークセンター


陣屋跡
この研修棟がある場所には、江戸時代初頭に陣屋が建てられていました。「陣屋」とは地域の政治の中心になった場所で、今で言えば市役所と警察と裁判所をあわせたようなものです。発掘調査の成果からは、大きな礎石建物を含め、周辺一帯に江戸時代初頭の施設があったことがわかっています。この大きな建物にはタタミ18畳分の部屋(九間)がありました。そのような大きな建物は当時めずらしく、また瓦や、ヨロイの部品などの特別な遺物が発見されています。
※現地看板より

牢屋の沢
ここは「ろうやさわ」といわれています。牢屋の沢とは、…そう、牢屋があったといわれる沢です。牢屋は、江戸時代初頭に陣屋に代官がいたときに使われたとされます。代官が裁いた罪人が牢屋に入れられたのでしょう。ここから少し上流の沢が二股にわかれた場所にあったようです。牢屋は「水牢」だったといわれ、水で罪人を苦しめたものと思われます。

この沢は、戦国時代には地形を削って「堀」として使っていたのだと考えられています。
※現地看板より

根小屋
根小屋は、根本・城坂、小網、荒久、馬込地区一帯に広がっていたと推定され、各地区で大小の曲輪が確認できます。特に城坂地区にはお屋敷跡、馬場、左近馬屋などの地名が残されており、津久井城の根小屋の中心と考えられています。また、お屋敷跡の発掘調査では、建物跡や焔硝蔵跡、深さ3mにも及ぶ空堀、土塁跡などが見つかっており、城主館跡と考えられます。

御屋敷跡
戦国時代、津久井城主内藤氏が館を構えていたとされる場所です。発掘調査では、深さ2.5mの堀や半地下式の蔵、中国製磁器や天目茶碗をはじめ、さまざまな遺構や遺物が発見されています。(現在は保存して埋められています)※現地看板より

御屋敷跡
城主の内藤氏の居館があった。

馬場


大手道(馬道)



太鼓曲輪

堀切と引橋
堀切は尾根伝いに攻めてくる敵を防ぐため、尾根を逆台形に大きく掘り込んだものです。平時は木橋がかけられていますが、いざ戦となると橋を引いたり落としたりして敵を防ぎました。津久井城では山頂の尾根に三箇所の堀切があります。

引橋について
山城では木橋や土橋が使われます。この場所には引橋の地名が伝えられており、また古絵図にも橋が描かれていることから、堀切を渡る木橋が架けられていたものと思われます。木橋の構造はよくわかりませんが、はしごを横にねかせたような簡易なもの、コロや車輪を使い移動することができる引橋、もちろん現在の橋のように固定されたものもあったようです。

ただ、その多くは非常時には簡単に取壊したり、移動することができるものでした。
※現地看板より

土蔵

門跡

案内看板
救急箱が置かれています。城山を歩いて一句。どこでも俳句という俳句を書く紙と鉛筆が置いてあります。詠まれた句はパークセンター前に掲示されるようです。

米曲輪


本曲輪
本城曲輪は津久井城の中心です。周囲の尾根には何段もの曲輪や長大な竪堀が掘られるなど、とても堅固な作りになっています。土手状に残った部分が土塁です。これは土を突き固め盛り上げた防御壁で、敵を攻撃する台としても使われました。
※現地看板より


築井古城記碑
津久井城の家臣の子孫が江戸時代に建てたとされる石碑。


米蔵

家老屋敷跡


飯綱曲輪

飯綱神社


烽火台
この付近は烽火台とも鐘撞堂とも伝えられます。戦国時代、城や砦の間の情報伝達には、天気の良い時には、烽火(狼煙とも書く)や旗、吹流しなど、また夜間や雨の日には鐘や法螺貝などの「音」が使われました。津久井城周辺には、敵に備え多くの砦や烽火台が築かれていました。

烽火台と鐘撞堂
江戸時代の中期に大阪の医師寺島良安により編集された百科事典「和漢三才図会」を参考にして復元された井桜矢倉式の烽火台です。跳ねつるべの先に火種をとりつけて空中に上げる様式のものです。

烽火はオオカミの糞を火種にしたことから狼煙とも書きますが、オオカミの糞は、真直ぐにあがり風にも強いと伝えられます。また煙草や青松葉、火薬、松なども使われていたようです。
※現地看板より

宝ヶ池
いざ戦となって山城にたてこもっても、水がなくては戦いどころではありません。宝ヶ池は、津久井城の水の手(溜井)のひとつです。江戸時代の地誌「新編相模風土記稿」は、「日照りや雨が続いた年でも、いつも安定して水をたたえている」と記しています。

水が白く濁っていることから城兵が刀を研いだとも伝えられます。また水が枯れないところから雨乞いの行事にも使われました。
※現地看板より

山城と水
中世にまとめられた城作りの手引書「築城記」は、山城を築くときの心得として、まず「水があることが大切、また水の手(井戸など)は遠くにつくってはならない」と記しています。水は戦はもとより、日常の城中生活に欠くことのできないものだからです。また「水が枯れるので、やたらに尾根を掘ったり、大木を伐ってはいけない」ともあります。

水の保護には常に気を配っていたことがわかります。津久井城では宝ヶ池のほか、本城曲輪の北側と御屋敷跡で井戸跡がみつかっています。また山麓にはいたるところに水源があり、今でも豊かな水が湧き出しています。津久井城は水で苦労することはなかったことでしょう。
※現地看板より

大杉跡
樹齢900年を誇った大杉ですが、平成25年の落雷により焼失。

津久井城は、奥三保の領主だった内藤氏が津久井氏の古城を改修し、
甲斐武田氏の侵攻に備えた後北条氏の城であったとされています。
1590年(天正18年)の豊臣軍の侵攻により本多忠勝、
平岩親吉らの攻撃により開城すると、
徳川軍に接収されたのちに廃城となりました。

2024/6最終訪問
