概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
下田城(しもだじょう)は、静岡県下田市三丁目に所在する下田港口の海に突き出た半島状の独立山塊・鵜島山(標高約70メートル、比高約65メートル)上に築かれた中世山水城(海城)跡である。通称「鵜島城」。下田市指定史跡。天文年間に小田原北条氏2代・北条氏綱が築いたことに始まり、天正16年(1588年)頃に伊豆郡代・清水康英が大改修を施した。後北条氏最大の海城であり、本丸を中心に二の丸、北東出丸を配し、尾根筋を断ち切る巨大な堀切や障子堀状の空堀、曲輪を取り巻く土塁、海食崖を削り込んだ峻険な切岸がほぼ完存する。三方を海に囲まれた天然の要害で、後北条水軍(伊豆水軍)の出撃拠点・軍港防衛要塞として機能した。現在は「下田公園」として遊歩道や案内板が整備され、初夏には約15万株・300万輪におよぶ日本屈指のアジサイ園が城跡を彩る名所となっている。
歴史的役割
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐において、長宗我部元親・九鬼嘉隆・加藤嘉明・脇坂安治ら率いる豊臣水軍大船団を相手に繰り広げられた激戦「下田城の戦い」の舞台として名高い。小田原北条氏は豊臣方の海上侵攻を阻止するため、伊豆水軍の司令官である重臣・清水康英に城兵約600名余を与えて死守を命じた。同年3月下旬、約1万数千の豊臣水軍船団が下田湾を完全包囲して猛攻を仕掛けたが、康英は海陸の防衛網を駆使して約50日間にわたり頑強に籠城・抵抗した。本城・小田原城への救援見込みが絶望的となるなか、豊臣方の徳川家康家臣・本多忠勝らの説得を受けて4月下旬に城兵の助命を条件として開城・降伏。戦後そのまま廃城となった。後北条氏の海防・水軍戦略の極致を示すとともに、戦国屈指の水軍攻防戦の歴史を物語る第一級の城郭遺跡である。
見どころ
鵜島山の主尾根を断ち切り敵の侵入路を完全封鎖した深さ約10mにおよぶ圧巻の「大堀切」遺構、本丸・二の丸周囲をめぐる重厚な「土塁」および三方の海食崖を活かした峻険な「切岸」、小田原征伐時に伊豆郡代・清水康英が豊臣水軍大船団を相手に50日間の死闘を展開した「本丸跡(天守台状削平地)」、城兵の命脈を保った「天水井戸(古井戸跡)」、本丸展望台から下田港・下田市街地・須崎半島・外浦海岸・伊豆七島まで見渡す360度の大パノラマ眺望、城郭遺構を埋め尽くすように咲き誇る日本屈指の「下田公園あじさい園(約15万株)」、山麓に連なる「ペリーロード(なまこ壁と石畳の街並み)」、下田市指定史跡碑・解説案内板
ご当地グルメ
概要・現地案内板
天下統一を進める豊臣秀吉と小田原北条氏の対立が表面化してきた天正16年(1588)北条方の水軍の拠点として下田城が取り立てられ、清水上野介康英が城将となった。
海に落ちる断崖に囲まれた天然の要害を利用して築かれた海賊城である。
天守跡と伝えられる城山の頂きから四方にのびる尾根の要所に曲輪が設けられ、延々と続く深い空堀の遺構は現在もよく残されている。
天正17年(1589)12月から翌年にかけて籠城の準備が行われ、雲見の高橋氏、妻良の村田氏等の南伊豆の武士が城に入り、小田原から副将として江戸朝忠、検使として高橋郷左衛門が派遣されてきた。
天正18年(1590)3月、秀吉の水軍脇坂安治、長宗我部元親、安国寺 恵瓊 による下田城攻撃が始まった。
およそ50日の籠城の未開城となり、城将清水康英は河津三養院に身を寄せた。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
下田公園

順路は右で、山道を登ると城址への近道。


土橋


空堀
下田城は、戦国大名北条氏が、豊臣秀吉との対決に備えて大改築した中世末期の山城である。城は、北条水軍の拠点として、下田湾に張り出した半島に築かれている。尾根の要所に曲輪や物見台を配し、およそ七百メートルの長大な空堀が巡る強固なものだった。天正18年(1590)に襲来した豊臣方水軍は一万人を超える圧倒的な兵力で海と陸から城を包囲した。

籠城した北条方の軍勢は、清水上野介康英を城将に、およそ六百名程度であった。50日あまりの攻防を経て、寄せ手の安国寺恵瓊・脇坂安治の起請文が出され、籠城軍は開城に応じた。城址は400年を経ているが、空堀の残存状態は良好である。北条氏が築いた山城の特徴である畝堀は、空堀の中に、侵入した敵兵の行動を妨げるために障害物(畝)を設けたもので、今日も目を凝らすとその形状を見ることができる。
※現地案内板より

切通
本曲輪(左)と南曲輪(右)を切っている堀切。

天下統一を進める豊臣秀吉と、小田原を本拠地とする北条氏の対立が表面化してきた天正16年(1588)、陸の防術拠点である箱根の山中城(三島市)とともに、海の防術拠点として下田城が取り立てられ、伊豆郡代清水上野介康英を城将に大改築が行われた。城は、海と断崖に囲まれた天然の要害に築かれている。通称天守台跡と呼ばれる高台を中心に、四方にのびた尾根の要所に守備陣地である曲輪や櫓台が設けられ、総延長7百メートルを超える空堀が巡る伊豆半島最大規模の山城である。

天正17年(1589)12月から翌年にかけて、雲見の高橋氏や妻良の村田氏など南伊豆の武士が入城し、小田原からは援将江戸摂津守・検使高橋郷左衛門が派遣され、臨戦態勢が整えられていった。天正18年(1590)3月、清水湊(江尻)に集結した秀吉方水軍は、長宗我部元親や脇坂安治ら率いる一万人を超える大船団で、西伊豆を制圧しながら下田城に迫った。圧倒的な兵力を眼前に、城将清水康英ら600余名の籠城軍は、50日ほど防戦に努めたが、4月下旬には開城の勧告を受け入れ、城を出た。
※現地看板より

城址碑



本曲輪

櫓台



眺望(下田港)

寺曲輪
下に見える広場が寺曲輪です。

障子堀






南曲輪


東曲輪へ

2024/8最終訪問
