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100名城・続100名城 40番
別称 山中城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 586.3m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別城郭
縄張山城
曲輪配置連郭式・梯郭式複合
築城者北条氏康
築城年永禄年問(1560年代)頃
廃城年天正18年(1590年)
主な城主北条氏、松田氏
指定文化財国指定史跡

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 空堀あり・堀切あり・横堀あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:586.3m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

山中城(やまなかじょう)は、静岡県三島市山中新田に所在する箱根山西麓の標高約580メートルの尾根上に築かれた後北条氏屈指の戦国山城跡である。国指定史跡、日本100名城に選定。小田原城西方防御の最重要防衛線(箱根十城の一つ)として東海道を眼下に扼する。石垣を一切用いずに関東ローム層の粘土質火山灰土を掘り抜いて築かれた土木城郭の最高峰であり、箱堀の底部に障壁を残して進入を防ぐ「障子堀(格子状空堀)」や「畝堀」が極めて美しい形状で現存する。本丸を中心に二の丸、西の丸、北の丸、出丸などの曲輪群が配され、すり鉢曲輪や田尻の池(溜池)を備える。昭和48年からの発掘調査と綿密な環境整備により、障子堀や土塁、架橋跡が芝生で保護・復元され、後北条流築城術の到達点を示す中世城郭考古学の至宝として保存・公開されている。

⚔️ 歴史的役割

永禄年間に北条氏康により甲斐の武田信玄の駿河侵攻に対抗する拠点として創築された。天正17年(1589年)、豊臣秀吉との決戦が不可避となると、北条氏政・氏直父子は小田原防衛の最前線として出丸や西の丸を急造増築し城域を大幅に拡張した。天正18年(1590年)3月29日、秀吉の小田原征伐が勃発。豊臣秀次を総大将とし徳川家康、堀秀政、池田輝政ら率いる豊臣軍先鋒約7万が来襲。城主代行・松田康長や副将・間宮康俊、北条一族の精鋭約4千が猛烈に迎撃したものの、圧倒的兵力差と一柳直末の戦死を含む熾烈な総攻撃により、わずか半日(約2時間とも伝わる)で落城。間宮康俊らは討死し、小田原西方の防衛線は崩壊した。この落城の衝撃が小田原城開城を決定づけることとなり、城はそのまま廃城となった。

👀 見どころ

発掘調査成果に基づき芝生張りで美しく復元・維持されている世界的にも希少な「障子堀(格子状空堀)」および「畝堀」の幾何学的土木遺構、曲輪周囲を取り巻く高さ数メートルに及ぶ巨大な土塁群および深い堀切・切岸、城兵の飲料水や馬洗場として利用された湧水池「溜池(田尻の池・元西の丸池)」、豊臣軍の猛攻に晒された最前線の「西の丸」および「出丸」遺構、山中城跡案内所(売店・展示室)、城址碑・解説案内板、富士山や駿河湾・愛鷹山を望む雄大な借景パノラマ

🍲 ご当地グルメ


概要・現地案内板

山中城は、小田原に本拠地を置いた後北条氏が、永禄年間である1560年代に小田原防備の為に創築した城郭となる。
1589年の豊臣秀吉の小田原征伐に備えて、急ぎ西之丸や出丸等の増築が始まり、翌1590年3月に豊臣軍に包囲され、約17倍の人数にわずか半日で落城した。
この時の後北条方の守将松田康長、副守将間宮康俊の墓は今も三の丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。

※現地案内板より


城犬のおいど 攻城記録


三の丸堀


三の丸の曲輪の西側を出丸まで南北に走るこの堀は大切な防御のための堀である。城内の各曲輪を囲む堀は、城の縄張りに従って掘り割ったり、畝を掘り残したりして自然地形を加工していたのに対し、三の丸は自然の谷を利用して中央に縦の畝を設けて二重堀としている。

中央の畝を境に、東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を処理し、西側の堀は空堀として活用していたものである。この堀の長さは約180m、最大幅約30m、深さは約8mを測る。
※現地案内看板より

田尻の池


東側の箱井戸と田尻の池とは、一面の湿地帯であったが、山中城築城時、盛土(土塁)によって区切られたものである。山城では、水を貯える施設が城の生命であるところから、この池も貴重な溜池の一つであったと考えられる。しかも、西側は「馬舎」と伝承されているところから、この地は馬の飲料水・その他に用いられたものと推定される。

築城時の池の面積は約148平方メートルであり、あふれた水は三の丸堀に流れ出ていたようである。
※現地看板より

二の丸虎口


二の丸


西木戸口


左の高台が元西櫓。

ここには木橋が架かっていたことが発掘調査で解かっています。

西の丸


西の丸は3400㎡の広大な面積をもつ曲輪で、山中城の西方防備の拠点である。西端の高い見張台はすべて盛土をつみあげたもので、ここを中心に曲輪の三方をコの字型に土塁を築き、内部は尾根の稜線を削平し、見張台に近いところから南側は盛土して平坦にならしている。曲輪は全体に東へ傾斜して、東側にある溜池には連絡用通路を排水口として雨水等が集められるしくみである。

自然の地形と人知とを一体化した築城術に、北条流の一端をみることができる。
※現地案内看板より

西の丸畝堀


西の丸内部に敵が進入することを防ぐため完全に曲輪の周囲を堀によってとりまいている。山中城では場所によって水のない堀と、水のある堀、やわらかい泥土のある堀とに分けられる。この堀の中は、五本の畝によって区画されている。畝の高さは堀底から約二メートル、更に西の丸の曲輪へ入るには九メートル近くもよじ登らなくてはならない。遺構を保護するため、現在は芝生や樹木を植栽してあるが、当時はすべりやすいローム層が露出しているものである。
※現地案内看板より

障子堀


後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を掘り残す、いわゆる「障子堀」という独特の堀が掘られている。西の丸と西櫓の間の堀は、中央に太く長い畝を置き、そこから交互に両側の曲輪にまかって畝を出し、障子の桟のように区画されている。

また、中央の区画には水が湧き出しており、溜まった水は南北の堀へ排水される仕組みになっている。このように水堀と用水池を兼ねた堀が山城に作られることは非常に珍しく、後北条氏の城の中でも特異な構造である。
※現地案内看板より

西櫓


城址碑


西の丸堀


西の丸堀は、山中城の西方防備の拠点である西の丸にふさわしく、広く深く築城の妙味を発揮しており、堀の末端は谷に連なっている。西櫓と西の丸の間は、中央に太い畝を置き、交互に両曲輪にむかって畝を出しているが、西の丸の北側では東西に畝をのばして堀内をより複雑にしている。このように複雑な堀の構造は、世に伝えられる「北条流堀障子」の変形であり、学術上の価値も高いものである。
※現地案内看板より

溜池


ここは溜池(貯水池)の跡である。山田川の支流の谷がここまで延びてきていたものを盛土によって仕切り、人工土手を作って深い堀としたものである。この溜池へ本丸・北ノ丸の自然傾斜による排水も、元西櫓の排水も流入するしくみである。深さ4メートル以上発掘したが、池底には達しなかった。山城の生命は、水の確保にあるといわれるが、貯水への異常な努力をうかがうことができる。
※現地看板より

本丸堀


山中城の堀の特色のひとつに、畝堀があげられる。この堀の中にわずかに見えるのが畝の頂部である。畝と畝の間隔は一定ではないが、ここでは西下りの地形にあわせて、畝の上部も階段状に西へ下がっている。城の防備上からは、堀の中の水が深く、堀も深いのが堀としては最もよいが、高地では普通空堀である。ここの本丸堀は畝をつくることにより、用水池をも兼ねることができるわけである。
※現地看板より

北の丸


標高583m、天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置し、面積も1920㎡とりっぱな曲輪である。一般に曲輪の重要度は、他の曲輪よりも天守櫓により近く、より高い位置、つまり天守櫓との距離と高さに比例するといわれている。この点からも北の丸の重要さがしのばれる。

調査の結果、この曲輪は堀を掘った土を尾根の上に盛土して平坦面を作り、本丸側を除く、三方を土塁で囲んでいたことが判明した。また、本丸との間には木製の橋を架けて往来していたことが明らかになったので、木製の橋を復元整備した。
※現地案内看板より

天守櫓跡


標高586m、天守櫓の名にふさわしく、山中城第一の高地に位置している。天守は独自の基壇の上に建てられており、この基壇を天守台という。基壇は一辺7.5mのほぼ方形となり、盛土によって50~70cmの高さに構築され、その四周には、幅の狭い帯曲輪のような通路が一段低く設けられている。

天守台には、井楼、高櫓が建てられていたものと推定されるが、櫓の柱穴は植樹により攪乱されていたため、発掘調査では確認できなかった。本丸から櫓台への昇降路は基壇より南へ延びる土塁上に、1m位の幅で作られていたものと推定される。
※現地案内看板より

本丸跡


標高578m、面積1740㎡、天守櫓と共に山中城の中心となる曲輪である。周囲は本丸にふさわしい堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と接している。この曲輪は盛土によって兵糧庫側から2m前後の段をつくり、2段の平坦面で築かれている。虎口(入口)は南側にあり、北は天守と北の丸へ、西は北条丸に続く。

。江戸時代の絵図に描かれた本丸広間は上段の平坦面、北条丸寄りに建てられており、現在の藤棚の位置である。
※現地看板より

兵糧庫跡


ここは古くから兵糧庫とか、弾薬庫と伝承されていた場所である。中央を走る幅50cmの溝は排水溝のような施設であったと考えられ、この溝が兵糧庫を東西二つの区画にわけていた。西側の区画からは南面する三間(6.7m)、四間(8.7m)の建物の柱穴が確認された。このことから周辺より出土している平たい石を礎石として用い、その上に建物があったものと考えられる。東側の区画からは、不整形な穴が数穴検出され、本丸よりの穴からは、硯・坏・甲冑片・陶器などが出土している。
※現地看板より

兵糧庫跡の柱穴と大きな穴


駒形諏訪神社


史蹟山中城の本丸に守護神として祀られた。建御名方命は、大国主命の御子神で、父神の国譲りに抗議して、追われて信濃の諏訪に着き、これより出ずと御柱を立つ。後、転じて日本第一武神と仰がれる。日本武命は景行天皇の命を奉じ、九州熊襲や、東国を征した。弟橘姫の荒海鎮静の入海は此の時である。山中城の落城(1590)後、人々移住し箱根山の往還の宿場として栄えた。
※現地案内看板より

芝切地蔵尊


2023/12最終訪問


🧭 周辺10km圏内の城郭(0城)

※半径10km以内に登録されている他の城郭はありません。

🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

JR東海道新幹線・東海道本線三島駅南口から東海バス(元箱根港行き等)で約35分「山中城跡」下車すぐ(三島市山中新田・山中城跡公園一帯、標高約580m、比高約150m)

車でのアクセス

東名高速道路 沼津ICまたは新東名高速道路 長泉沼津ICから伊豆縦貫自動車道および国道1号経由で箱根方面へ車で約25分

駐車場

有(山中城跡案内所前駐車場・売店前駐車場、無料約70台)

📍 周辺地図

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