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出羽国 米沢城 [ YONEZAWA CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナヨネザワジョウ
別称舞鶴城、松ヶ岬城
スタンプ設置場所ー米沢観光コンベンション協会観光案内所
曲輪配置輪郭式
城郭種類平城
築城者長井時広
築城年鎌倉時代
廃城年1871年
主な城主長井氏、伊達氏、蒲生氏、直江氏、上杉氏
指定史跡未指定
標高250.0 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構あり
現状上杉神社
駐車場松が岬駐車場
最寄り駅JR 米沢駅


概要・現地案内板

伊達氏・上杉氏の居城で、松岬城・舞鶴城とも呼ばれる。
米沢城の起源は、鎌倉時代に地頭・長井時広が居館を置いたと伝えられる。
その後、長井氏に替わり伊達氏が置賜地方を領し、天文17年(1548)には伊達晴宗が本拠を米沢に移し、輝宗・政宗の三代で米沢城下が整備された。
天正19年(1591)、政宗は豊臣秀吉の命で岩出山城に移り、米沢城には蒲生氏郷の家臣・蒲生郷安が入るが、慶長3年(1598)に上杉景勝が会津120万石に入封、米沢城には重臣・直江兼続が配された。
慶長6年(1601)、前年の関ヶ原の戦いで西軍方についた上杉景勝が米沢30万石に減封され米沢城に入城、城下の拡張整備に着手した。
以後、寛文4年(1664)に後継問題で米沢藩は15万石となるが、米沢城は約270年間にわたり上杉氏13代の居城として明治維新を迎えた。
城郭は平城で、本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式の縄張りで、三の丸の東側には町人町・職人町が置かれた。
本丸の中央は藩主の住む御殿があり、南東隅の高台には上杉謙信の遺骸を祀る御堂が建ち、北東と北西の隅には三層の隅櫓があった。
明治になって御殿や隅櫓は取り壊され、本丸跡は松が岬公園と上杉謙信を祭る上杉神社になる。
堀と土塁が往時を偲ばせ、堀の周囲には桜の木が並び桜の名所ともなっている。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


松が岬第2公園


本公園は、お濠で囲まれた米沢城の本丸跡地を中心とし公園に整備された。上杉家ゆかりの地でもあり、桜の名所として、また、四季折々のまつりが開催されるなど、本市の観光拠点となっている。
※現地看板より

お食事処 べに花庵


米沢市上杉博物館


上杉鷹山公之像


草木塔


松岬神社


伊達政宗公生誕の地碑


上杉鷹山公之像


天地人


上杉景勝公と直江兼続公主従像

上杉謙信公之像


従三位 上杉 曦山公之碑


観光案内所


スタンプ設置場所


続日本100名城スタンプ設置場所

従三位上杉曦山(斉憲)公の碑


丸の内


西門跡


福徳稲荷神社


稽照殿(宝物殿)


御祭神上杉謙信公の遺品を主として二代景勝公、直江兼続公、中輿の慶君鷹山公の遺品遺墨等がほとんどで、平宴より江戸期に亘る絵画、書跡、刀剣、甲冑、武具、仏器、陶漆器、服飾類等多種多様で重要文化財、重要美術品、県文化財、を含む収蔵品は優秀な美術工芸品として或は貴重な史料として往時を語り伝え、櫟然たる光輝を放っている。上杉神社再建に当たりその宝物殿として創設されたもので神殿と調和を保つ日本風の外観をみせた重層建築である。名づけて稽照殿という。
※現地看板より

かねたん


直江兼続四百回忌
かねたん誕生十周年記念

米沢市直江兼続マスコットキャラクター

上杉神社


天正6年(1578年)3月13日、戦国の名将上杉謙信公が越後の春日山城に49才で急逝された時、その遺骸を城中不識庵に仏式を以て鎮祭されたのであるが、二代景勝公が会津を経て米沢に移封されるに当り、祠堂を米沢城内に移して仏祭を厳修し爾来260年に及んだ。明治の世を迎え祠堂のまま神祭に改め、米沢藩中輿の名君鷹山公を合祀して上杉神社と称し、同9年には新たに神殿成り初めて遷座祭を行なう。

明治35年、往時の勤王の功により別格官幣社に列せられたが(鷹山公は新たに摂社として松岬神社を創立して正面濠の外に鎮座)先年の神社制度の改革によって社格を廃して現在に至る。大正8年米沢市の大火後同12年米沢出身建築界の泰斗伊東忠太博士の設計により現在の神殿を始め一切を竣成したのである。境内は旧米沢城址本丸跡で例祭は4月29日(役年3月13日を太陽暦に換算)。
※現地看板より

拝殿


四脚門


池泉回遊式の庭園


春日神社


今から1040年程前越後の国司として派遣されていた藤原遠成が、上越の春日山頂に奈良の春日大社を分霊し領内の平和を祈りました。戦国時代の上杉家は代々春日社を守り神として敬い続け、藩主の移封と共に会津から米沢へと移ってまいりました。その後、減封を続けた上杉家は藩の財政が苦しく、再建を願った十代鷹山公の春日社への誓詞奉納は有名な事実です。

明治5年に現在地へ移った春日神社は、大正8年の米沢大火により上杉神社と共に類焼し、松岬神社に合祠されましたが昭和56年市民の浄財により再建され今日に至りました。
※現地看板より

菱門橋


米沢城本丸跡の南側堀に架かる太鼓橋で、鮮やかな朱塗りの橋は写真の好スポットとなっている。橋名は、江戸時代は本丸内の藩主が住んだ「御殿」からの南出入口にあたり、その通行は厳重に取り締まったことから「秘し門」と称されたことに由来する。
※現地説明板より

ウコギの垣根


ウコギの垣根は、米沢藩中輿の祖、上杉鷹山公が奨励したことにより、普及したといわれています。米沢の多くの家々では、古くから垣根として用いられており現在でも米沢のまちなみを語る上では欠かせない景観のひとつになっています。ウコギは、食用にも適しており、ビタミンなどが豊富に含まれています。春先に新芽を摘み、きりあえ、てんぷらなどにして食べます。昔から米沢に伝わるウコギを親しみを持って大事に育てましょう。
※現地看板より


上杉謙信が眠る米沢


上杉謙信は天正6年(1578)、越後の春日山城(新潟県上越市)で49年の生涯を閉じます。その遺骸は漆で密閉された甕に入れられ、上杉家と共に越後から会津、米沢へと移されました。この案内板背後の高台は、米沢城本丸の東南隅にあたり、ここに謙信遺骸を祀る御堂(祠堂)が建てられました。本丸内に遺骸を安置するのは大変珍しいことです。御堂は城内で最も神聖な場所とされ、江戸時代が終わるまで藩士から崇拝されました。現在は歴代藩主が眠る米沢藩主上杉家廟所中央に遺骸が移されています。
※現地看板より

米沢城と舘山城


米沢城跡(松が岬公園)から約3キロ西側の舘山地区に、山城と平城からなる舘山城跡があります。伊達家の正史「伊達治家記録」には、地元の有力者新田氏の居城であったり、伊達輝宗の隠居所、伊達政宗が地割をした記載があります。また、平成25年の発掘調査で山城から石垣が発見されました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い以降の石積技術であることから、上杉景勝が築いた石垣とみられます。舘山城は、米沢城の西側の拠点として、伊達家や上杉家が整備した重要な城と考えられます。米沢市はこのような歴史遺産が多く残るまちです。
※現地看板より

2019/10最終訪問


城郭周辺地図

山形県米沢市丸の内

松が岬駐車場のGoogleMAP


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