城郭DATA -CASTLE DATA- 
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | ナグルミジョウ |
| 別称 | なし |
| スタンプ設置場所 | 名胡桃城址案内所 09:00-16:00 |
| 曲輪配置 | 連郭式 |
| 城郭種類 | 山城 |
| 築城者 | 沼田氏 |
| 築城年 | 1492年 |
| 廃城年 | 1590年 |
| 主な城主 | 鈴木氏 |
| 指定史跡 | 県指定 |
| 標高 | 429.0 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 復元建造物 | なし |
| 遺構 | あり |
| 現状 | 史跡名胡桃城址 |
| 駐車場 | 名胡桃城址駐車場(無料) |
| 最寄り駅 | JR 後閑駅 |

概要・現地案内板
ここ名胡桃城は、群雄割拠の戦国時代を勇猛に駆け抜けた真田昌幸が築いた上野国利根郡の山城で、10年ほどの歴史にもかかわらず、ここを舞台とした小さな事件が乱世を終わりに向かわせることとなりました。
この時期の利根沼田地方は上杉氏・武田氏・北条氏による争いが繰り広けられていましたか、天正7年(1579)頃、真田昌幸が吾妻方面から進出し境目城として名胡桃城を築き、翌年には沼田城を手中に収めました。
天正17年(1589)の、豊臣秀吉は北条氏政・氏直親子と真田昌幸による北毛地域の領地争いを裁定しましたが、同年、真田領に残された名胡桃城を北条氏の家臣が攻略してしまいました。
それをきっかけに翌年、豊臣秀吉は小田原北条氏を滅ぼし、事実上、天下統一を果したのです。
その後、名胡桃城は廃城になりました。
※現地案内板より
城犬のおいど 攻城記録

般若曲輪
般若郭は、主体となる郭の連続部の西側に位置し、独立する小さな台地を堀切で区画していて、長さ約85m幅約56mで名胡桃城のうら一番大きい郭です。ここは館跡として、築城以前から存在していたかもしれません。郭の縁辺には、柵塀を建てた溝や柱列が廻っていましたが、南辺や東側の状況はよくわかりません。

また、中央部北西寄りには両脇に溝をもつ通路が、ニ郭の通路とほとんど同じ方向で敷設されています。この通路の両側からは、全部で24棟の掘立柱建物址群が整然と並んで確認されました。建物群は3時期にわたり重複し、同時に6~7棟が建っていたと考えられます。掘立柱建物址は9m以上の大型総柱の中心的建物から3m程の小型建物まで規模・形態は様々で、郭の北東端には櫓の様な建物址もみられます。現在は駐車場の下に埋め戻されていて見ることができません。
※現地看板より

名胡桃城址案内所

スタンプ設置場所
続日本100名城スタンプ設置場所

名胡桃城址
平安時代に書かれた「和名類聚抄」によると、この付近一帯は呉桃郡といわれ、その後も地名とは別にナグルミと呼ばれ続け、域の名に由来しています。名胡桃城址は、利川と
赤谷川が合流する南西方向に広がる名胡桃平とよぶ河岸段丘面の一角に立地します。この約6万年前にでき段丘には礫層が厚く堆積し、河川敷との間には比高約70mの崖が連なって
います。

この城は深い開析谷により侵食され突出した要害地を空堀で区画し、ささ郭・本郭・ニ郭・三郭の主要部分を直に連続させた連郭式の縄張り構造の山城で、西側に般若郭が独立し、南西には外郭が広がります。また、南東を流れる湯舟沢を利用した水の手があり、北東端には物見も見られます。この付近には沼田城跡をはじめ加川城址・明籀寺城址があり、南には権現山城址、南東に
富士浅間砦址がみられます。平成4~12年度にわたる発掘調査により、当時の姿をうかがうことができ貴重な成果をあげました。

ささ郭と本郭はトレンチ調査により、ささ郭から土塁の石積みと搦手門の柱礎石が発見され、本郭では周囲の土塁址を確認しました。ニ郭は西側半面を調査し、石積みをもつ周囲の土塁址・
喰い違いの南虎ロと礎石門をもつ北虎ロの間を結ぶ中央通路・大型を含む8棟の掘立柱建物址群などがみつかり、土塁や遺構の一部を整備しました。

ニ郭堀切と本郭堀切では、土橋を壊して木橋に架け替えたことがわかり橋を架けました。三郭と馬出からは、古い三日月堀・掘立柱建物址群・追手門址・土塁址・丸馬出の全容と新たな三日月堀などが確認されました。また、般若郭般からは、周囲に柵塀を廻し、通路の両側に24棟の掘立柱建物址群が整然と並んだ
館跡が確認されました。
※現地案内板より

馬出
馬出は城内から出撃する際に、防御、攻撃をより強固にするための施設で、虎口から直に出入りできないように堀と土塁で造り付けられています。おおまかには、三日月堀による丸馬出とコの字堀による角馬出に分けられ、これらが発達するとそれぞれ出丸と馬出郭とよばれています。

丸馬出は山梨県の躑躅ヶ崎館(武田神社)を主とする武田氏の城館こ多く、角馬出は小田原城を主とする北条氏が好んて造らたとされます。さらに、いろいろな虎口構造や櫓と組み合わさって複雑なものもみられます。
※現地案内板より



三郭
三郭の規模は約64X26mて、東西に長い郭です。外郭との間の堀切は幅約12m深さ5 ~ 7mあり、西側の堀底は般若郭との間の殿坂と合流し北へ延びています。二郭堀切の土橋外側で幅約3m深さ約1.5m薬研形の三日月堀が検出されにことから、築城当初
ここは三郭てなく、馬出があったことがわかりました。

その後、三日月堀を埋めて郭や堀切などを新設する大改造を行っていますが、ここは大きな馬出郭であったとも考えられます。郭の西側と南側には石列が残り、基底幅5 ~ 6mの土塁がありました。新にな馬出とつながる土橋は掘り切られていて、再び後世に盛り土されています。追手の虎口には門、郭内には時期の異なる3棟の掘立柱建物がそれぞれ建てられ、そのうち建物1楝と浅いL字溝を組み合わせた施設が、三日月堀を埋め立てた後に造られています。
※現地案内板より


二郭南虎口
虎ロとは防御施設としての出入口のことで、小口や戸口に虎の字をあてて勇猛さ危険さを意味しています。このニ郭南虎ロは、ニ郭の中が直接見透かされないよう、郭内の建物敷地より一段高い位置に造られています。ニ郭堀切は幅1 1 ~ 13m深さ5.5 ~ 7mで、堀切法面の傾斜は三郭側が45度
二郭側が55度と角度を変えて掘られています。

また、ニ郭堀切は直線的に設計せず、堀幅半分ずらして掘られています。堀切・土塁・門により
左右に曲がりながら進入する敵を、正面や横方向から攻撃できるこの防御構造を喰い違虎ロと呼びます。虎ロ周辺の土塁基底部内側には、2 ~ 5段の川原石の乱石積みが残っています。二郭堀切の土橋薬研形に掘り切られ、4本の脚柱による木橋を架けていました。土塁に挟まれた4本の掘立柱による門址は、北虎ロの礎石門と同じ規模です。
※現地案内板より

二郭
二郭は約65X50mの台形で、西側の縁辺は広く崩落して波打った形になっています。中央部に広がる建物敷地は、周囲より1m程低くに造成されていて、西~南~東側には段があり、幅6 ~ 7mの土塁基底部が残っています。郭の北側と南側には、それそ特徴的な虎ロ(別に説明)が確認され、両脇に溝を持つ幅2.5m程の通路が南北の門を直線で結んでいます。

南虎口からの通路面は、スロ一プになっています。南北の虎ロ周辺の土塁基底部には石積みがあり、通路協の溝の壁には部分的に石が並べられています。また、東側崖面の中間には腰郭が残っています。この通路の西側からは8棟の掘立柱建物址群がみつかり、般若郭等と同様に3時期に分けて考えられます。復元整備では第2期の3棟が平面表示されています。建物と土塁の間には溝が廻り、排水設備が整っていました。
※現地案内板より

二郭北虎口
虎ロとは防御施設としての出入口のことで、小口や戸口に虎の字をあてて猛さ危険さを意味しています。ここニ郭北虎ロの特徴は、郭内の通路から続く4個の礎石による門址て、うちひとつは石塔の切石が再利用されています。通路東脇の溝は、門をくぐり暗渠排水として本郭崛切まて伸び、溝横から立ち上がる土塁の腰部には4 ~ 6段の自然石による乱石積みがみられます。

本郭堀切は幅14 ~ 16m深さ7 ~ 9mあり、法面はニ郭側より本郭側の方が20度ほど急傾斜で、土橋の左右で堀幅を変えて、大きくクランク状に進入する構造になっています。また、門址の西側に続く上塁の下からは、幅約3m深さ約1.5mの堀が確認され、空堀から土塁へ改築されていました。堀切造成の際に掘り残した橋の基擅上には、6本の柱穴がみつかり木橋が架かっていたことがわかりました。
※現地案内板より




本郭
名胡挑城址は、大正12年に地元の有志で結成された保存会によって、よく保存管理されてきました。昭和2年、本郭に「名胡挑城址之碑」を建立し、本郭とささ郭に松・桜などの樹木を植え史跡公園として完成させました。この碑文を書いたのは文豪の徳富蘇峰であり、文字の彫りも深く見事で、石材は地元の富士山でとれた安山岩、村中の人たら総出で運び建てました。

隣の副碑ば、昭和43年の明治百年記念て建立しています。本郭は長さ約51 m約30mの洋梨形ですが、両側の崖面とも大きく崩落してコンクリートで補強されていることから、当時はもっと広かったことがわかります。郭の縁辺には土塁の基底部分が残っていて、土塁が廻っていました。この城には天守はなく、本郭内の虎ロや建物の状況はわかっていません。
※現地案内板より



ささ郭
ささ郭とは、城の主体になる本郭が外に対してむきだしにならないように設けた郭で、唯一この城跡に残存る土塁を両側にもつ狭長な通路でした。ささ郭の先端側には袖郭と物見が続き、尾根づたいに下方に通じていました。ささ郭は長さ約31m幅約14mで、中央には約1m掘り込んだ幅2~5mの通路があり、その両側を1mほど盛り上げた土塁で挟んでいました。

通路の先端には礎石が4個設置され、搦手門がありました。土塁の内側には、自然石を3~4段乱雑に積んだ石積みがみられます。本郭との間は、幅約12m深さ約6mの堀切で区画され、幅1mほどの狭い土橋で連結されていました。現在、礎石門址・通路・石積み・土橋などは、保存のため埋め戻されてみられません。また、ささ郭堀切に設置した階段通路は当時の復元物ではありません。
※現地案内板より



袖郭

物見曲輪



2025/3最終訪問
城郭周辺地図
群馬県みなかみ町下津
[ HOME ] [ 城郭データーベース ] [ 群馬県の城郭一覧 ]

