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常陸国 小田城 [ ODA CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナオダジョウ
別称なし
スタンプ設置場所
曲輪配置
城郭種類平城
築城者八田知家
築城年1192年
廃城年1569年
主な城主小田氏
指定史跡国指定
標高13.9 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構あり
現状小田城跡
駐車場小田城跡専用駐車場(無料)
最寄り駅関東鉄道 下妻駅


概要・現地案内板

小田城跡は、今から400年以上前の鎌倉時代から戦国時代にかけて、常陸国(現在の茨城県の大部分)南部に勢力を持った小田氏の居城跡で、居城跡で、国の史跡に指定されています。非常に広大な平城跡で、史跡範囲だけでもおよそ南北550m、東西450mに及びます。
つくば市では平成21年度(2009)から7年間をかけ、城跡中央の本丸跡とその周辺約4万㎡を、中世の小田城跡を体感できる歴史ひろばとして復元整備しました。
戦国時代の姿を復原した本丸跡は、上幅20m以上の堀跡に囲まれた南北145m、東西130mの方形をしており、3方向に出入口を設けています。
ここ東側から入ると正面に御殿、左に庭園、右に空間地があり、かつての大手口(正門)を体感できます。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


小田城跡歴史ひろば案内所


本丸模型


りんりんロード


北堀


大手道


東堀


東曲輪


本丸の東前面に位置する、幅約50mの南北に細長い曲輪跡で、東と南は基丸の東前面に位置する、幅約50mの南北に細長い曲輪跡で、東と南は基低幅6~10mの土塁跡で囲まれていました。曲輪内部で建物跡などがほとんど確認されなかったことから、本丸跡を防御するとともに、出撃する時の拠点となった場所(馬出?)だと考えられます。

東の堀跡を隔てたあたりは「一ノ木戸」という通称地名が残る場所で、東曲輪跡から城跡の東側へと続く通路や門があったと思われます。
※現地看板より

東橋跡


東虎口跡


本丸跡にあった3つの出入口のうちの1つで、幅は約4mあります。南側で門の礎石が1つ確認され、その表面に方形の柱の痕が残っていました。対岸の東曲輪へは木橋が架けられ、さらに土橋へとつながっていました。土橋は堀を埋め立てて造られており、盛土裾部には石積みが数段築かれていました。

虎口跡から本丸跡内部へ続く通路は、幅約6mで両側に側溝を持ちます。
※現地看板より

建物域


建物が集中し大溝で区画された南北約75m、東西約70mの範囲を、建物域と呼んでいます。南側では多数の柱穴や礎石が確認され、大きな礎石建物跡も見つかっています。一方、北側は溝により小区画に分けられ、多数の柱穴に加えて焼けた壁土や炭化米等が多く見られます。

これは、南側が接客や儀式等を行う表(非日常)の空間で、北側が城主の住まいや台所等の裏(日常)の空間だと想定されています。柱穴の重複や礎石の残り具合により、形が判別できなかった建物跡も多かったため、整備では確実なものだけを表示しています。
※現地看板より

大溝


大溝跡は上幅約2.5m~5.0m、深さ約1.5mの断面薬研状で、溝底には部分的に障壁があります。本丸内で建物が集中する北西部分を、南北約75m、北西約70mの長さでL字状に区画しており、区画内の地面が外より30㎝程高くなっています。

暗渠跡


この大溝の南東隅(L字の角部)から東側の溝へは、黒雲母片岩の板石を重ねて20㎝四方の管を作った暗渠で水を通しており、その上は通路であったと考えられます。
※現地看板より

東池跡


南北約32m、東西約13mの不整形で、深さは30~80㎝、南寄りのくびれ部で南北に分かれます。池底には小石が敷かれますが、斜面には石を使用していません。池の北西部には拳大の石を敷き詰めた州浜や庭石があり、その外側には土を盛った築山の存在も想定されます。池は厚さ10㎝程の炭化米層や黄褐色土層で、きれいに埋められていました。

埋土内には高級陶磁器等も多数含まれており、それらの品々から永禄13年(1570)頃、小田氏から佐竹氏への城主交代に際して埋められたものと想定されます。
※現地看板より

西池跡


南北約14m、東西約17mの隅丸方形で、深さ約1m、この大きさは戦国時代の16世紀後半の状況です。以前は南北40m以上、東西20m程、深さ40~80㎝と広く浅い池から、狭く深い池に作り替えられています。東池とは異なり庭石等が多く使われいたと考えられ、北西と東斜面には小石を敷いています。

発掘調査を一部分で止めたため、復元整備では池の範囲のみを示し、庭石のうち池の中から出土した一点をその真上に、池から離れた場所で出土したものは池のそばに展示しています。
※現地看板より

南西虎口跡


南西虎口跡は土塁の一部を削って最終段階に造られました。虎口周辺には部分的に石垣が築かれ、石垣は幅3.2mの通路の両側から内側へ「ハ」の字状に広がります。通路を横断して並ぶ石列もあり、この石垣と石列に囲まれた場所に3.2m四方程の門がありました。石垣の石材は黒雲母片岩を主体に花崗岩の石塔部材等も転用しています。

発見された石垣は崩れていましたが、機能時にはもう少し高かったと思われます。復元整備では、出土した状況のまま型を取り、約1mの盛土で保護した上に設置しています。
※現地看板より

南西馬出曲輪


「馬出」とは、出入口である虎口の前面を堀や土塁等で区画した小空間のことで、攻守を兼ねた施設になります。南西馬出跡は約50m四方で、南・東・西は上幅約10m、深さ約3mの堀と下幅約5mの土塁で、北は上幅約20mの堀でそれぞれ囲まれています。北側は木橋で本丸と、東側は土橋で外の曲輪と連絡し、西側は堀が屈曲し幅が狭いことから木橋があったと思われます。

北側の木橋跡は、2本で一対になった橋脚が1.8mの間隔で10本整然と並んでいました。橋の整備に際しては、地下に残っている橋脚材の保護のために橋の重さは両端で支えて、橋脚があった位置は円形の筒を吊り下げて示しています。
※現地看板より

南堀


西堀


土塁内展示室(手洗所)


ここは旧筑波線跡地で土層断面が広く調査できたため、小田城跡が館から城郭へ変化する過程がわかる貴重な場所となっています。本丸跡は鎌倉末~室町時代には右側の段差(階段部分)で示すような小規模な堀のみで囲まれていました。戦国時代の初め頃から土塁を巡らすようになり、以後両者ともに規模を拡大していきます。

この部分の土塁跡は上部が削られ高さ0.8mしか残っていませんでしたが、最終期には3~4m程あったと想定されます。
※現地看板より

2025/4最終訪問


城郭周辺地図

茨城県つくば市小田

小田城跡専用駐車場(無料)のGoogleMAP


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