城郭DATA -CASTLE DATA- 
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | コミネジョウ |
| 別称 | 白河城、白河小峰城 |
| スタンプ設置場所 | 三重櫓 09:30-16:00 二ノ丸茶屋 09:30-17:00 |
| 曲輪配置 | 梯郭式 |
| 城郭種類 | 平山城 |
| 築城者 | 結城親朝 |
| 築城年 | 1340年 |
| 廃城年 | 1871年 |
| 主な城主 | 結城氏、蒲生氏、丹羽氏、松平氏、阿部氏 |
| 指定史跡 | 国指定 |
| 標高 | 369.8 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | あり |
| 復元建造物 | あり |
| 遺構 | あり |
| 現状 | 城山公園 |
| 駐車場 | 城山公園専用駐車場 |
| 最寄り駅 | JR 白河駅 |
概要・現地案内板
阿武隈川の南側、小峰ヶ岡と呼ばれる東西に長い独立丘陵(標高370メートル)を利用して築かれた城郭が小峰城です。
江戸時代に編さんされた「白河風土記」(1805年成立)によれば、興国・正平年間(1340~69)頃、白河庄の領主結城宗広の嫡男親朝(別家小峰家を創設)の築城がはじまりとされます。
永正年間(1504~20)以降、一族に起こった内紛で小峰家が権力を掌握し、白河結城家を代表するようになると、本拠が小峰城に移ったと考えられています。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置によって白河結城家が改易され、以降約40年にわたって白河は会津藩領となり、小峰城には城代が置かれました。
寛永4年(1627)、白河は会津藩領から離れて白河藩が成立します。
現在目にすることができる石垣をめぐらせた城跡は、初代藩主丹羽長重が幕府の命を受けて改修したとされ、梯郭式平山城の近世城郭として寛永9年(1632)まで約4年の歳月をかけて大きく改修したものです。
この大改修は、本丸・二之丸を総石垣で固め、三之丸も門の周辺部を石垣積みとしたもので、東北地方には数少ない、随所に石垣を多用した特徴があります。
現在、本丸・二之丸を中心とした約16万3000平方メートルが史跡となっていますが、当時の城郭の範囲は現在のJR白河駅の南側までを含むもので、約54万平方メートルの規模と推定されています。
小峰城は、丹羽長重とその子光重が在城したあと、榊原家(1代)・本多家(2代)・奥平松平家(1代)・結城松平家(3代)・久松松平家(4代)・阿部家(8代)と、親藩・譜代大名6家19代の居城となり、北東北の外様大名に対する江戸の防衛ラインの一端として「奥州の押さえ」の役割を担いました。
慶応3年(1867)、阿部家が棚倉に転封されると白河藩は消滅して小峰城は幕府管理となり、翌年に戊辰戦争が勃発すると新政府の管理地となります。
東北地方まで戦火が及ぶと、要衝の地である白河をめぐって奥羽越列藩同盟軍と新政府軍が戦い、小峰城内の建物の多くは焼失しました。
しかし、平成3年(1991)に三重櫓、同6年に前御門が発掘調査や江戸時代の精巧な絵図(「白河城御櫓絵図」)をもとに木造で忠実に復元され、往事を偲ばせています。
また、この復元は、近年全国各地で行われるようになった城郭建築物の木造復元のさきがけとなりました。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録

二ノ丸跡


太鼓門跡
太鼓門は二之丸の南側入口にあたる門で、三之丸からの土橋を渡った所に設けられていました。高さ約3.8mの石垣の上に櫓をわたした櫓門で、規模は高さ約10m、間口が約10mでした。

文化5年(1806)につくられた「白河城御櫓絵図」の中の「太鼓御門建絵図」によれば、柱には槻(欅のこと)が用いられ、屋根は瓦葺きの切妻屋根となっています。他の城郭の太鼓門(櫓)では、藩士の登城合図などに鳴らす太鼓を置いた例があり、小峰城でも同様の可能性が考えられます。
※現地看板より

清水門復元整備期間の城内案内図

城址碑

清水門跡




月見櫓

帯曲輪門
帯曲輪門は、本丸を囲む帯曲輪の南側の出入口で、清水門を入って左手奥に設けられていました。資料によっては「中ノ門」とも記されています。門は石垣の上に櫓を渡した「櫓門」の形式で、高さ約7m、櫓部分の間口が約13mあり、屋根は切妻造りの柿葺きでした。また、門の南方に突き出した石垣の上に、月見櫓と呼ばれる2階建ての櫓がありました。
※現地看板より

櫻之門跡
桜之門は清水門から左側を入った場所にあり、本丸御殿の南側入口にあたる門です。門を入った先は御殿の庭部分に通じており、藩主の居住区に近く、藩主などの出入りに利用された門と思われます。

石垣の上に櫓をわたす「櫓門」の形式で、門の高さは約7mでした。桜之門の付近に桜の木が数本植えられていたことが分かる絵図があり、門の名はこの桜から付けられた可能性も考えられます。
※現地看板より


本丸跡

多聞櫓跡


本丸御殿跡
本丸の平坦地には、御本城御殿(本丸御殿)と呼ばれる建物が存在していました。松平定信が藩主時代の文化5年(1808)に作成された「白河城御櫓絵図」中の「御本城御殿平面図」では、藩主の居所と政庁を兼ねていたと考えられます。畳数は707畳とする記録があり、かなりの大きさだったことがうかがえます。
※現地看板より

前門


竹之丸跡
本丸の東に位置し、外周に石垣を巡らせた曲輪です。北東に平櫓(角櫓)、南東に二重櫓がありました。「白河城御櫓絵図」には、これらの櫓の立面図と平面図が存在し、往事の姿を伝えています。絵図等では、曲輪内の建物の存在は明確ではありませんが、平成3年に実施した発掘調査では、東西方向に延びる礎石列や石組みの水路跡が確認されました。

東日本大震災により南面石垣が崩落しましたが、修復に伴う発掘調査において、現在の石垣面から約7m北側の位置に、会津支城時代(1590~1627)に構築されたと考えられる石垣が発見されました。
※現地看板より


三重櫓
本丸の北東隅に建つ三層三階の櫓で、小峰城の中心となる最も規模の大きな櫓です。高さが約13m、一階が約12m四方、二階が約8m四方、三階が約4m四方の正方形となっています。外観は黒塗りの板を張った「下見板張」で、耐久性が高いとされます。

北側には、張り出しの「石落とし」が設けられているほか、南側と西側にも張り出した土間が設けられ、西側の土間に出入口があります。屋根に飾られる鯱は高さ約1.2mです。また、三重櫓に使用した瓦は1万3千枚を超える膨大な数だったことが記録に残っています。
※現地看板より





戊辰戦争の際、実際に打ち込まれた鉄砲玉の跡
三重櫓の復元に際して、戊辰戦争の激戦地であった「稲荷山」の大杉を使用したところ、多数の弾丸とともに見つかったものです。
※現地説明より







文庫櫓跡


水懸口
水懸口は、帯曲輪北面の石垣を、凹字状に構築して作られた門のような施設で、資料によっては「塵取門」などと記されています。場所や名称から、日常的に通行する門ではなく排水やごみ処理など施設管理のための出入口と推測されますが、詳しいことは分かっていません。高さは約6mで、屋根は杮葺きの切妻造りでした。
※現地看板より



小峰城跡で最古と考えられる石垣
三重櫓の北面石垣の一部では、大型で不定形の石材を使用し、石材の表面に粗く割った面を残す特徴が見られます。この石積みの特徴から、江戸時代開始の前後である、慶長年間(1596~1615)頃に築かれたと考えられます。

白河藩が成立する以前、慶長6年から寛永4年(1601~1627)の小峰城を描いた絵図とみられる「白河城之図」にも、三重櫓の北側に石垣が描かれています。
※現地看板より

矢之門
矢之門は、本丸を囲む帯曲輪の北東側の出入口で、石垣の上に櫓を渡した櫓門と、2階建ての櫓が連結しています。櫓と門が連結しています。櫓と門が連結した形式は、小峰城内で唯一のものです。櫓門部分は高さ約8mの切妻造りで、二重櫓は高さ約9mの入母屋造りとなっており、いずれも杮葺きだったと考えられます。

帯曲輪の防御と、城の北側の監視機能を兼ねた、重要な防御施設といえます。
※現地看板より






藤門跡

二ノ丸茶屋

2025/5最終訪問
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