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武蔵国 松野氏館 [ MATSUNO-SHI RESIDENCE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナマツノシヤカタ
別称御蔵陣屋
スタンプ設置場所
曲輪配置
城郭種類平城
築城者松野資信
築城年江戸時代
廃城年不明
主な城主松野氏
指定史跡未指定
標高16.1 m
城址碑なし
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構あり
現状宅地
駐車場付近に駐車場なし
最寄り駅JR さいたま新都心駅


概要・現地案内板

この館跡は標高18メートルの台地上に位置し、かつては三方に見沼の大湖沼が入り込み、天然の要害地を呈していた。
ここには岩槻太田氏の家臣・松野氏が居城していたと伝えられる。
松野氏は天正18年(1590)4月、豊臣秀吉が小田原城を攻撃した際、岩槻城主太田氏に従って防戦したが敗れ、秀吉の軍門に降った。
同年8月、徳川家康が関東入国後、松野氏は徳川氏に召出され、200石の旗本として御蔵村を賜り、以後幕末までこの地を支配していた。
館跡の正面と思われる南側は、東西に走る道路によって原形が失われ、正確な規模はわからない。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


鎌倉公園


鎌倉街道


大宮町内には、「鎌倉街道」と呼ばれる古道が断片的に数箇所残されているが、当御蔵地内にあるのもその一つである。この鎌倉街道は、どこからどこへ通じていたのか道筋も失われ、その一部が農道等に利用されたりして、古老の話によってそれと知れるのが、現状である。しかし、これらは江戸時代以前には重要な役割を果たしていたと思われる。

ここに残る鎌倉街道は、海老沼の東側にあって、ここから見沼を渡って対岸の大宮へ上陸し、与野~大久保~羽倉~志木~所沢方面へ通じていたものと思われる。道幅は3メートルほどであったらしいが、特殊な遺構も残っている訳ではなく、土地の人が鎌倉街道と称しているだけで、いつごろつくられたかは不明である。
※現地看板より

鎌倉公園遺跡


大宮市が昭和56年にこの公園の造成工事に先立って発掘調査を行ったところ、縄文時代から古墳時代にかけての「むら」の跡が発見された。なかでも、縄文時代では今から約8千年前の縄文前期の土器をはじめ、約4千年前の縄文後期初頭の竪穴住居跡が12軒見つかり、すでにこの地に人々が生活を営んでいたことがわかる。

住居跡には、出入口が張り出すように堀りくぼめられ、全体の形が柄鏡に似ているところから「柄鏡形住居」と呼ばれているものもある。この時代の関東地方に見られる特殊なもので、当時のくらしぶりの一端が偲ばれる。出土品や発掘現場写真は大宮市立博物館に保存されているので、いつでも見ることができる。なお、公園名は近くに残されている鎌倉街道(と伝えられる)にちなみ命名されている。
※現地看板より

松野氏館跡


2025/8最終訪問


城郭周辺地図

埼玉県さいたま市見沼区大字御蔵

付近に駐車場なし


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