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丹波国 篠山城 [ SASAYAMA CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナササヤマジョウ
別称桐ヶ城
スタンプ設置場所大書院館内 09:00-17:00(月曜定休)
曲輪配置輪郭式
城郭種類平山城
築城者徳川家康
築城年1609年
廃城年1871年
主な城主松井松平氏、藤井松平氏、形原松平家、青山氏
指定史跡国指定
標高222.4 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物あり
復元建造物あり
遺構あり
現状史跡丹波笹山城跡
駐車場三の丸西駐車場
最寄り駅JR 篠山口駅


概要・現地案内板

篠山城は、慶長14年(1609)に、天下を磐石なものにしょうとする徳川家康が、豊臣方の拠点である大坂城を包囲するとともに、豊臣家ゆかりの西日本の諸大名を牽制するために、山陰道の要衝であったこの地に築いた城です。
築城工事は、旧豊臣大名の経済力を弱めることを目的に天下普請とされ、山陰道、山陽道、南海道(近畿・中国・四国地方)など15ヶ国20大名が動員されました。
城は、当時「笹山」と呼ばれた独立丘陵を利用して築いています。
工事は、開始から1年に満たない短期間でほぼ出来上がるという突貫工事で進められました。
笹山は全体が岩盤で出来ていたため、難工事の中での完成でした。
篠山城の縄張は、築城の名手といわれた藤堂高虎がが行ったものです。堀を二重に廻らし、外堀の三方に出入口として馬出しを設け、防御に徹した城構えとなっています。
天守閣は、城の完成を急いだことと実戦向きの城としたため築かれませんでしたが、二の丸には大書院に代表される御殿が建てられました。
大坂夏の陣を経て江戸幕府が安定すると、篠山城は西日本の諸大名の押さえの城として位置づけられます。江戸時代を通して、幕府の信頼厚い譜代大名の4家が、藩主として次々と移ってきています。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


大手馬出跡


馬出とは城の虎口(出入口)の守りを固めるための曲輪(城の中の区画)です。篠山城は、大手、東、南の3ヵ所の出入り口全てに馬出が設けられる大変強固な造りであり、築城を命じた徳川家康がこの地を重視していたことがうかがえます。現在、大手馬出は、土塁の一部を残すのみとなっていますが、東・南馬出は良好に保存されています。

馬出が残る城は全国的に珍しく、大変貴重な城郭遺構です。
※現地看板より

北廊下門


櫓台跡


篠山城の本丸と二の丸を囲む内堀は、廃城後に埋め立てられ往時の姿を留めていませんでした。そのため、平成15年度から「史跡篠山城跡整備基本構想」に基づき、内堀石垣全体の復元整備を行っています。内堀石垣の大半は抜き取られていたことから、発掘調査の成果をもとに正確に復元するよう努めています。

江戸時代の古絵図によると、この場所には内堀石垣と一体となった櫓台のあったことが分かっています。櫓台とは敵の侵入を防ぐために設けられた防御施設の一種です。発掘調査を実施した結果、櫓台のおおよその範囲を確認したことから、その範囲を表面表示することにしました。ただし、櫓台石組の高さに関する資料がないため、立体的な復元とはしておりません。

表面表示に際して、櫓台のおおよその範囲を示すために石を配し、遺構面の保護と修景を行いました。なお、城内においては、サクラやモミジなどの樹木が多く、歴史的景観を高める役割を果たしています。篠山城跡の歴史的価値を大切にするとともに、緑化による景観向上にも配慮しながら今後も整備を進めていく予定です。
※現地看板より

犬走り


表門


中門


鉄門


二の丸へ至る最後の門の跡です。絵図によると櫓門形式の門があり、呼び名の通り門扉には、鉄板が張られていたのではないかと考えられます。発掘調査の結果、門跡は廃城後に1.5m埋められていましたが、土を取り除いたところで、門跡の範囲を示す敷石と階段跡等の遺構が発見されました。

これによって鉄門は東西の幅約5m、奥行き4.5mの大きさで、東側石垣高さ4mと、西側石垣高さ4.5mとの間に造られた厳重な構造であったことが明らかとなりました。二の丸登り口の整備にあたり鉄門跡の範囲を自然石による敷石で示しています。
※現地案内板より

大書院


篠山城は1609年、大阪城を包囲する城の一つとして、徳川家康の命令により築かれました。築城は天下普請によって20の大名が動員され、半年余りで完成しました。明治に建物の大半は取り壊され、唯一残った大書院も1944年に火災で焼失しましたが、石垣や堀など城を構成する主要部分がよく残っており、1956年に国の史跡に指定されました。

現在は石垣の修復や大書院の復元などの整備が進み、往時の姿を取り戻しつつあります。二の丸の大書院は篠山城内最大の建造物で、明治になった後も小学校や郡公会堂などとして利用されていましたが、1944年に火災により焼失してしまいました。多くの地域住民の願いをもとに、2000年に大書院が復元されました。復元にあたっては発掘調査の成果や古写真などをもとに検討が重ねられ、往時の姿が忠実に再現されました。
※現地看板より

大書院構造模型


草花小禽図屏風


篠山城の梵鐘


この梵鐘は、4代藩主松平(形原)康信が、寛文12年(1672)に二世安楽を願って造り、城中の道場にかけていたものです。その後、京都の新熊野権現社や蓮華寺へと移され、大切に保管されていました。昭和58年(1983)、多くの方々の尽力によって310年ぶりに篠山へ還ってきました。大書院が復元されたのを機に、この場所で展示することにしました。
※現地説明板より

上段之間


障壁画


これらの障壁画は、往時の雰囲気をできるだけ再現させるため、大書院が建築された時期、江戸時代初期の狩野派絵師が描いた屏風絵を転用し、床貼り付けや襖として製作しました。

上段の間の大床は「老松図」、天袋は「花卉図」、違棚は「松竹梅雉子図」、台帳構は「牡丹図」、次の間襖四面は「籬に菊図」を用い、華やいだ中にも移りゆく季節感をかもし出すように努めました。
※現地説明板より

台帳の間


武者隠し

孔雀の間


虎の間


井戸


二の丸


二の丸は、大書院・小書院・中奥御殿・奥御殿・台所などの建物と築山を持つ庭園があり、 儀式・執務を行う場と、城主の生活空間の場で篠山城で最も重要な場所であった。 これら御殿群の周囲には三層の櫓1棟、二層の隅櫓5棟とそれをつなぐように多聞櫓と門が 配置されていた。

現在残っている二の丸御殿間取図や発掘調査の結果から御殿は、江戸時代に何度か建て替えられたり、増築されたりしていたようである。しかし大書院を除く建物は廃藩後には取り壊され、唯一残っていた大書院も昭和19年に焼失し、城郭の建物はすべて無くなってしまっていた。
※現地説明板より

大書院跡について


篠山城大書院は二の丸跡に所在した城主居館の中で、とくに歴代藩主による公式行事に使用された場所で、正規の書院造の建物となっていました。この建物は慶長4年(1609)の徳川幕府の天下普請による篠山城築城時に、京都二条城を参考にして建てられたと伝えられ、大きさは東西28m、南北26mの篠山城最大の規模となっていました。

内部には上段の間、孔雀の間などの多くの部屋があり、障壁画で飾られていたと考えられています。廃城後もこれだけ残されましたが、昭和19年の失火により失われました。その後、焼失から56年たった平成12年3月大書院の威容が大書院跡地に甦りました。
※現地看板より

二の丸御殿跡


井戸


篠山城本丸跡


ここは、篠山城の最後の砦となる本丸跡です。築城当初は現在の二の丸が本丸、現在の本丸は南東の隅に、天守台が造られたことから、特に殿守丸と呼ばれていました。天守台の大きさは東西約19メートル、南北約20メートル、約380㎡の広さがあります。天守台石垣は本丸内側からの高さ、約4メートル、外側の南と東側犬走りからの高さ約17メートルで、篠山城で最も高い石垣です。

天守は築城の時に建築が中止され、代わって天守台南東隅にニ間四方(4メートル四方)の一重の隅櫓が建てられました。本丸の周囲は天守台と南西隅・北西隅の三ヶ所に二重の隅櫓を建て、間を多聞櫓でつないで内部を囲んでいました。二の丸には大書院をはじめとする御殿が建てられたのに対して、本丸には御殿等の建物は無かったようす。本丸内の北側中央にある一の井戸は岩盤を掘り抜いたもので、深さ約16メートル(内水深約8メートル)で、掘るのに2年もかかったと伝えられています。
※現地看板より

追墓碑


青山神社


青山神社は、1882年に本丸跡に建立され、篠山藩主青山氏の遠祖青山忠俊と第12代藩主青山忠裕が祭神として祀られています。青山氏は譜代大名で幕府の要職を歴任した家柄で、中でも忠裕は30年余り老中を務め、その功績により篠山藩は5万石から6万石に加増されました。毎年4月第1土曜日(宵宮)と日曜日(本宮)に青山神社の祭礼が行われます。

本宮では、春日神社へ渡御の行列があり、御輿とともに鎧や薙刀を身に着けた小学生たちが太鼓と法螺貝の合図で練り歩きます。
※現地看板より

青山忠誠頌徳碑


安政6年2月15日 篠山藩主 青山忠良の子として江戸(現東京)に生まれた。明治8年旧藩子弟を東京に招き学資を給して進学させ邸内に寄宿舎を設け、尚志館のもとを開いた。明治九年篠山に篠山中年学舎を設け人材の育成に努め鳳鳴義塾(現篠山鳳鳴高校)の基礎を築いた。明治20年7月23日東京で病死(享年29歳)明治25年正四位を追贈された。
※現地看板より

天守台


天守台は本丸(殿主丸)南東部の城内で最も高く、奥まったところに位置し、石垣の高さは約17m、平面規模は東西約18m、南北約20mであります。築城(1609)時に、天守閣は江戸幕府の指示により、城郭が堅固すぎるとの理由で建築を中止し、代わって、南東隅に二間四方(4m四方)単層の隅櫓を配置し、東面と南面に土塀をめぐらせていました。

東方には丹波富士と呼ばれる中世の山城である高城山(八上城跡)が美しい姿を見せております。
※現地説明板より

埋門跡


埋門周辺の石垣には、篠山城内で最も多くの符号、刻印があります。なかでも、埋門石垣南角に残る「三左之内」の刻印は、篠山城築城時に普請総奉行を務めた、池田三左衛門輝政の名を印したものといわれています。
「三左之内」の刻印は、埋門の外側で見ることができます。
※現地説明板より

石垣の刻印


西堀


三の丸


外堀


南馬出


篠山城は上空から見ると正方形のとてもシンプルな形をしていますが、当時の最先端の築城技術が用いられた、守りの堅い城です。馬出とは、城で入口の守りを固めるために、外堀の外側に作られた曲輪の一種ですが、城から攻めだす時には兵馬を集めて一斉に攻撃する時にも使われます。

馬出は大手、東、南に設けられましたが、現在は東馬出と南馬出が現存しています。
※現地看板より

2025/11最終訪問


城郭周辺地図

兵庫県丹波篠山市北新町

三の丸西駐車場までのGoogleMAP


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