コンテンツへスキップ

丹波国 福知山城 [ FUKUCHIYAMA CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナフクチヤマジョウ
別称横山城、龍ヶ城、竜ヶ城、臥龍城、八幡城、掻上城
スタンプ設置場所福知山城入口受付 09:00-16:30(火曜定休)
曲輪配置連郭式
城郭種類平山城
築城者明智光秀
築城年1579年
廃城年1873年
主な城主明智氏、杉原氏、小野木氏、有馬氏、岡部氏、稲葉氏、松平氏、朽木氏
指定史跡市指定
標高40.9 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物あり
復元建造物あり
遺構あり
現状史跡福知山城跡
駐車場福知山城公園観光駐車場
最寄り駅JR 福知山駅


概要・現地案内板

福知山城は天正年間、明智光秀の縄張りと伝えられ慶長年間にいたり近世城郭として完成されました。
明治の廃城後わずかに残された本丸に多くの皆様の協力により大天守、続櫓小天守が再建されました。
城郭研究の権威 東京工業大学名誉教授 藤岡通夫工学博士の復元設計による二重櫓に入母屋の大屋根をかけその上に小望楼をのせた姿は初期天守の様式をよく表わしています。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


福知山城公園観光駐車場


昇龍橋


公衆トイレ(福知山城公園 入口)


本丸跡


満州開拓顕彰碑


福知山城石垣の転用石


天守閣の石垣は、「野面積み」「乱石積み」などと呼ばれる技法で未加工の自然石が積み上げられています。また、五輪塔や宝篋印塔を始め、石仏、石臼、灯籠などの石造物が大量に石材として利用され、これらは転用石と呼ばれています。転用石の大量の使用例は、福知山城や大和郡山城に見られます。

再建時の発掘調査で五百個余りが確認されています。中に、「延文4年」(1539)銘の五輪塔地輪(転用石の年号銘では最古)や、「天文10年」(1541)銘の五輪塔地輪(天守閣地階の階段石に転用)があります。また、宝篋印塔の塔身、基礎、基壇と、この地域の優れた石造品をうかがい知ることができます。
※現地看板より

銅門番所


この建物は福知山城の銅門の脇(市役所の東)にあった番所で城内の建築物として当時の面影をしのばせるものです。大正時代のはじめに天守台(小天守台)に移築され更に昭和59年天守再建に伴いこの場所に移築されたものです。
※現地看板より

城郭プランと天守閣


福知山城や城下町の絵図は有馬・稲葉・松平・朽木各時代のものが残されています。これらのうち、松平時代(1649~1699)の絵図をもとに、具体的な様子をみてみましょう。城郭部は横山丘陵先端の地形を利用しています。東は法川を利用した大堀を、西は堀と土居を、南は堀切を、北東側は由良川を堀と見立て、城下四方を防御する「総郭型」(総構え)の構造となっています。

丘の先端に天守台と本丸を置き、二の丸・伯耆丸(三の丸ー現在市役所の南にある丘)が西へと続きます。南側の低地には「御泉水」とよばれる庭園と蔵・馬屋敷、その西側には内記丸(西の丸)が配置されていました。このうち石垣を持つのは丘陵上の城郭主要部のみでした。再建された天守閣は大天守、小天守、続き櫓から構成されています。外観は3層ですが、内部は4階となっています。古文書や門・玄関の配置から、天守閣は西向きに建てられており、西から見るのが正面の姿といえます。
※現地看板より

福知山城の石垣


石垣は、表土を削り溝状に岩盤を掘り込んで、安定した根石を据えるよう工夫されています。図(「天守部分現存石垣配置図」)は現存の石垣を示したものですが、天守台(A部・B部・C部)部分は、すべて岩盤上に積み上げられたもので、内部はこぶし大から人頭大の栗石でびっしりと充填されていました。

本丸のD部は、岩山の斜面に積み上げられた構造となっています。福知山城に現存している石垣は、大小の自然石(野面石)を用いた「穴太積み」技法によって積まれています。天守台・本丸の石垣は、発掘調査の結果から、3回の増築が行われていることが確認されています。
また、石垣には五輪塔・宝篋印塔などの石垣が大量に転用されています。

現在、石垣に組み込まれているもが約90点、天守台石垣内部から出土したもの(石垣内部の栗石として使われていたもの)が約250点、近代以降の積み直し部分には約70点が使用されており、その多くはA部に集中しています。年号が刻まれているものでもっとも古い石塔は延文4年(1359)、新しいものは天正3年(1575)です。
※現地看板より

豊磐井


本丸に残る井戸は「豊磐井」と呼ばれています。これは福知山藩主朽木氏初代稙昌の父である稙綱の神号「豊磐稙綱命」にちなんだものだものです。井戸の深さは50メートル(城郭本丸内の井戸としては日本一の深さ)海抜は約43メートルですので、井戸底は由良川の河床よりも深く、海面下7メートルに達しています。ことになります。

この井戸が掘られたのは朽木時代になってからと思われますが、当時の井戸掘り技術の高さを示しています。
※現地看板より

福知山城天守復元鯱瓦


この鯱瓦は福知山市と旧大江町との合併を記念して、「日本鬼師の会」が福知山城の天守閣の鯱瓦を原寸大復元したものです。 同会は平成3年に伝統的鬼瓦の保存と技術の継承を目的として設立されました。 会員は国内各地110余名からなる鬼瓦制作集団です。

平成18年9月2日から10月1日まで30日間にわたり、福知山市大江町にある「大江山鬼瓦工房」に、のべ91名の鬼師が参集し、土と格闘し互いに技術の交流をはかりながら完成した作品です。 伝統的鬼瓦の技術継承と、瓦文化の普及のため製作された鯱瓦です。より多くのみなさまに身近に触れてもらえるよう、この場所に設置しました。鬼師の卓越した技術を御覧ください。
※現地看板より

福知山城天守模型


朝暉神社


釣鐘門


福知山城と城下町


福知山のまちは、天正7年(1579)に丹波を平定した明智光秀が城を築き、城下町整備に着手したことではじまったものと伝えられ、福知山城も光秀ゆかりの城として知られています。城は明治の廃城令により本丸・二の丸の建物が取り壊され堀も埋められ、天守閣周辺の石垣しか残されていませんでした。

しかし、昭和61年に市民の熱い想いで天守閣が再建され、福知山の美しい四季を背景に往時の姿をしのばせています。城地は市街地の南から北東に向かって突き出した丘陵上(標高約40m・幅約100m)に位置し、周囲を由良川・土師川、丘陵で四方を守られた要地にあります。中世には天田郡の豪族、塩見氏がこの地に横山城と称する山城を築いたといわれています。

丹波を平定した光秀は、福知山城の縄張りを行い、治政に反抗的な近隣社寺を打ち壊し、石塔類を天守台の石垣に利用したと伝えられています。一方ではこれらの石塔は城のお守りとしたのではないかとも言われています。天守の一部は、城再建時の発掘調査の成果や石垣の特徴から、光秀の時代に造られたことが確認されています。光秀は城下町を造るために堤防を築いて由良川の流れを変え、町に地子銭(税金)免除の特権を与えて商家を育てたとも伝えられています。

その期間は短いものでしたが、光秀は強く人々の記憶に刻まれ、城下町の鎮守である御霊神社に祀られ、「明智光秀丹波を広め、広め丹波の福知山」と福知山音頭に今も謡われるなど、広く永く市民に親しまれています。光秀の丹波平定後、城には家臣明智秀満が入りました。光秀没後は羽柴秀長の家臣が管理したと言われ、その後杉原家次、田中吉政、小野木重勝と続きました。

関ケ原の合戦後、有馬豊氏、岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房、朽木種昌と交代し、その後朽木氏は福知山藩主として幕末まで在城しました。今に残る城下町の形態と壮大な城郭が整備されたのは、有馬豊氏の時代と推定されます。
※現地看板より

2025/11最終訪問


城郭周辺地図

京都府福知山市字内記

福知山城公園観光駐車場までのGoogleMAP


[ HOME ] [ 城郭データーベース ] [ 京都府の城郭一覧 ]

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

PAGE TOP