概要
松江城は、島根県松江市にある平山城で、江戸時代以前から現存する全国12天守の一つであり、国宝に指定されています。別名「千鳥城」とも呼ばれ、黒塗りの下見板張りが特徴的な無骨で実戦的な外観を持ちます。1607年に堀尾吉晴によって築城が開始され、その後、京極氏、越前松平氏と城主が変遷しました。宍道湖に近い亀田山に築かれ、水都・松江の象徴として現在も美しい姿を堀の水面に映し、多くの観光客を魅了しています。
宍道湖北岸のほとりにある標高約29mの亀田山に本丸を置き、周囲に二の丸、三の丸などを配置した輪郭式の平山城です。南には宍道湖を控え、城の周囲には複雑な水路や堀が巡らされており、これらは防御の要であると同時に、物資の輸送など水運にも大きく貢献しました。この豊かな水網は現在も「堀川」として残り、遊覧船が行き交うなど、城下町の風情を色濃く残す松江の独特の美しい景観と地勢を現在に伝えています。
1600年の関ヶ原の戦いの功績により出雲・隠岐両国を与えられた堀尾氏が、山城である月山富田城に代わる新たな平時の統治拠点として築城しました。軍事防衛拠点としての役割だけでなく、城下町松江の形成を促し、地域の政治・経済・文化の中心として機能しました。江戸時代中期以降は親藩である松平氏の居城となり、松江藩の政庁として幕末まで出雲地方の安定した治世と繁栄を支える極めて重要な役割を担い続けました。
1871年の廃藩置県によって廃城となり、軍部省の管轄下に入りました。その後、天守以外の建造物は払い下げられ解体撤去されましたが、天守は地元の有志による保存運動と資金調達により買い戻され、奇跡的に解体を免れました。その後は松江市の公園として整備が行われ、1935年に国宝指定(旧法)、1950年に重要文化財指定を受け、2015年には天守が再び国宝に指定され、松江市のシンボルとして親しまれています。
2012年に再発見された「祈祷札」などの史料により、天守の完成時期が慶長16年(1611年)であることが確定し、国宝指定の決定的な証拠となりました。現存する天守には、通し柱を用いた独自の建築構造や、戦国時代の名残を留める石落とし、鉄砲狭間などの実戦的な防御施設が完存しています。また、築城当時の野面積みや打ち込み接ぎなどの石垣も良好に残り、近世初頭の築城技術を伝える極めて高い学術的価値を有します。
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城郭詳細データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | マツエジョウ |
| 別名 | 千鳥城 |
| 所在地 | 島根県松江市殿町 |
| 100名城スタンプ | 第64番 ぶらっと松江観光案内所・松江城天守内 |
| 城郭構造 | 輪郭式平山城 |
| 天守構造 | 独立式望楼型4重5階地下1階(現存天守) |
| 築城者 | 堀尾吉晴 |
| 主な城主 | 堀尾氏・京極氏・松平氏 |
| 築城年 | 1607年 |
| 廃城年 | 1871年 |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | あり |
| 再建建造物 | 南櫓・中櫓・太鼓櫓・一ノ門・本丸土塀 |
| 指定文化財 | 国指定 |
| 遺構 | 現存天守・南櫓・中櫓・太鼓櫓・一ノ門・本丸土塀・石垣・水堀・土塁 |
| 現状 | 史跡公園(松江城山公園) |
| 駐車場 | 駐車場あり・有料 |
| 最寄り駅 | JR松江駅・一畑電車松江しんじ湖温泉駅 |

城犬のおいど 攻城記録
駐車場

大手口
堀尾氏は豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦で武功をたてた堀尾忠氏(堀尾吉晴とする説もある)は慶長5年(1600)出雲・隠岐両国24万石(23万5千石とする説もある)を与えられ、広瀬の富田城に入城した。しかし、富田城はその周辺を高い山に取り囲まれ大砲などを使う近代戦に不利であったことと、侍を住まわせるに広大な城下町を形成しなければならなかったことなどの理由からこの極楽寺山(亀田山とも言う)に城地を移した。

築城工事は、慶長12年(1607)から足かけ5年を費やし慶長16年(1611)に一応の完成をみた。城地の広さは東西360米、南北560米あり、周囲に幅20~30米の内濠をめぐらす。標高28.1米の頂上部に本丸を置き、荒神櫓をはじめ6か所の櫓とそれをつなぐ細長い多門がめぐっている。天守は本丸の東北隅に築かれている。二之丸は、本丸の南側に一段低く隣接し御書院や御広間などがあった。本丸の東側の平地は二之丸下の段と呼ばれ藩士の扶持米などの米蔵が立ち並んでいた。その外、本丸の周囲には腰曲輪、中曲輪、外曲輪、後曲輪があった。

石垣用の石材は、松江市の東部、大海崎、福富地区の山麓から産出する安山岩(いわゆる大海崎石)が大量に使用され堀尾氏の家紋である分銅型などの刻印が認められる。城主は堀尾氏、京極氏と続くが、いずれも嗣子なく断絶した後、松平氏が10代続き一度の戦乱にまき込まれることなく明治維新を迎えた。 明治8年(1875)無用の長物と化した櫓や多門など多くの建物はことごとく壊されたが天守だけは旧藩士や豪農の懇請により保存されることになり山陰地方唯一の現存天守としてその威風堂々たる偉容を今も宍道湖畔に映し出している。
※現地説明版より

馬溜跡


南総門跡

二の丸下の段

太鼓櫓
太鼓櫓は、二之丸の北東角に建てられた平屋建ての櫓です。中櫓と同規模の櫓ですが、入口に庇が付くところが異なります。江戸時代前後から幕末までの文献や絵図には、いずれも「太鼓櫓」という名前で記されているように、城内に時刻や号令を告げる太鼓が置かれていた櫓であったことが考えられます。
※現地説明版より

二之丸下ノ段地区
二之丸下ノ段
東西100m、南北210mの広大な平地で江戸時代には米蔵がたくさんありました。北には屋敷地、南には幕末の頃、御破損方・寺社修理方(城や神社仏閣の建物修理事務所)がありました。堀尾時代の米蔵跡は、調査後平面整備しました。

御破損方・寺社修理方跡は発掘調査の結果、二棟の礎石建物跡が確認されたので同じ大きさの上屋を建て内部を茶店、売店に利用しています。
※現地二之丸下ノ段地区解説版より


二の丸跡

二之丸地区解説版
本丸南側の一段低い平地で、江戸時代には中央に御書院があり松平家二代藩主綱隆の時まで藩主の居宅となっていました。御書院の北には御殿女中の住居である局長屋、南には御月見櫓があり、ほかに御広間、御式臺、御作事小屋、番所、井戸がありました。また石垣に沿って二之門、三之門、定御番所、御門東之櫓、下雪隠、太鼓櫓、腰掛、中櫓、南櫓がありました。現在、西半部には明治36年建築の興雲閣(県指定文化財)と明治32年に東照宮を移築した松江神社があります。

三ノ門跡

二ノ丸定番所跡
松江城二ノ丸は松江松平藩二代綱隆公の時代《寛文6年(1666)~延宝3年(1675)》まで藩主の居住した御殿があった場所ですが、その御殿の入口を警備する人々が詰めていたのが、「二の丸番所」です。『松江城縄張図』《元禄5年頃(1692)》という古絵図を見ると、この付近には東西12間半(22.875m)・南北3間半(6.405m)の建物(番所跡)が記載されています。平成4年に松江市教育委員会で発掘調査を実施したところ、南北約3間半(6.3m)の台状の貼床(はりゆか)が検出されたので、ここには確かに番所跡があったものと考えられます。

二ノ門跡

国宝 松江城天守案内板

一ノ門跡

本丸

国宝 松江城天守
松江城天守は、四重五階地下一階の構造で、高さは約30mあり、貴重な現存天守のひとつとして、昭和10年に国宝指定を受けました。その後、文化財保護法の施行により、重要文化財に指定されましたが、平成27年7月8日、改めて国宝に指定されました。特徴は、前面に附櫓を設け、最上階から四方を見渡せる複合式望楼型天守であり、

白壁は少なく、黒く厚い板でおおわれた下見板張りで、石垣はごぼう積みと呼ばれる方式がとられています。軸組は、長さ二階分の通し柱と周囲に包板を鎹や帯鉄で取り付けた柱が多用されるなど独自の構法が用いられており、近世城郭最盛期を代表する城郭建築物として、極めて高い評価があります。平成24年5月に再発見された2枚の祈祷札から、慶長16年(1611)の完成が明らかとなりました。
※現地案内板より

天守入口


地階
俗称穴蔵の間(14坪)と呼ばれ、慶長初期の築造法で長期戦や、ろう城の場合も考え、ここに米や塩など食料物資を貯蔵した。中央には、深さ24メートルの自然石積の円形井戸があり、飲料水が得られた。
※現地説明版より

祈祷札

井戸



1階

包板
地階から4階の柱には、柱の周囲を板で包んだものがあります。柱の一面だけ、あるいは二面、三面、四面に板を張ったもので、包板と呼ばれる技法です。天守内の柱総数308本のうち現存は103本にこの技法が使われています。板は柱に鎹で固定され、さらに鉄輪で締められていますが、通し柱に施された包板も二階分を貫いておらず各階ごとの施工となっています。

粗悪材や柱の割れ隠しなど体裁を整えることを目的としながら補強効果も期待したものと考えられています。現存天守では松江城だけに見られる技法です。
※現地説明版より


太鼓
この太鼓は、松江城二之丸の太鼓櫓にあり、毎日登城の時刻を知らせ、非常呼集の際にも使われていた。明治初年、廃城に際し有志が買い取り、城下の阿羅波比神社に寄進したため現在に残る。
※現地説明版より

石落し
石落しは、石垣に接近したりよじ登ってくる敵兵に石を落としたり熱湯をあびせたりしてげき退するもの一層と二層の屋根の間を利用して作られている外部からは発見しにくい。四すみと東・西・北壁にある。
※現地説明版より



桐の階段
築城時からある桐の階段。敵が攻めてきた際に階段を取り外せるように、軽い素材の桐を使用したともいわれています。


箱便所





棟札

国宝指定書

松平直政公初陣之像
真田信繁(幸村)が守る真田丸を攻める14歳の松平直政の初陣姿で、信繁は、その勇ましい姿に軍扇を投げ与えたという。島根県安来市出身の彫刻家・米原雲海(1869~1925)製作の原型を彫刻家・得能節朗氏が写した「松平直政公初陣之像」である。
※現地説明版より











千鳥橋
この橋は、江戸時代には「御廊下橋」とよばれ、お城の中心部と藩主の館がありました三之丸御殿を結ぶ大変重要な橋で屋根がかかっていました。現在の橋は、屋根はありませんが絵図により橋脚を二ヵ所三本建てとし堅い国産のヒバの木を使い平成6年3月に完成したものです。
※現地説明版より




2018/1最終訪問
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