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100名城・続100名城 64番
別称 千鳥城、松江城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 あり
標高 28m
最終訪問日 2018-01-05

📋 概要スペック

種別城郭
縄張平山水城
曲輪配置梯郭式・輪郭式複合
築城者堀尾吉晴
築城年慶長12年(1607年)着工・慶長16年(1611年)完成
廃城年明治4年(1871年)
主な城主堀尾氏、京極氏、松平氏(越前)
指定文化財国指定史跡

🏯 基本情報

天守平面構造複合式 天守形式望楼型
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓あり(二之丸南櫓・中櫓・太鼓櫓木造復元)
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門あり(北惣門橋・一ノ門脇塀等木造復元)
現存土塀なし 再建土塀あり(二之丸土塀木造復元)
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 水堀あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

💮 スタンプ設置場所(64番)

松江城天守内受付カウンター 日~土曜(08:30~17:00)

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:28m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

松江城(まつえじょう)は、島根県松江市殿町に所在する宍道湖と中海を結ぶ大橋川北岸の亀田山(標高約29メートル、比高約25メートル)に築かれた近世平山水城跡である。「千鳥城」とも称され、国宝(天守)、国指定史跡、日本100名城に選定。堀尾吉晴・忠氏父子が月山富田城から本拠を移して慶長16年に完成させた。本丸を中心に二之丸、後藤丸、三之丸が梯郭・輪郭状に展開し、城外には宍道湖の水を引き込んだ幾重もの内堀・外堀が巡る。現存天守は四重五階地下一階の木造望楼型天守で、包板(つつみいた)で補強された通し柱や地階の深井戸など実戦的な防御構造を誇る。平成13年には二之丸に南櫓・中櫓・太鼓櫓が伝統木造工法で忠実に復元された。城を囲む堀川をめぐる遊覧船や、北総門橋、武家屋敷が立ち並ぶ塩見縄手とともに江戸時代の城下町景観が極めて良好に保全されている。

⚔️ 歴史的役割

山陰の覇権を握った毛利氏・尼子氏の抗争舞台であった月山富田城が山間部で不便だったため、関ヶ原合戦後に24万石で入封した堀尾吉晴が水運と経済に優れた宍道湖畔の要衝・亀田山に近代的な拠点として築いた。堀尾氏3代断絶の後、京極忠高が入封して三之丸を改修したが嗣子なく断絶。寛永15年(1638年)、徳川家康の孫である松平直政が信濃松本から18万6千石で入封し、以後明治維新に至るまで越前松平家10代の居城として山陰統治の中心地となった。七代藩主・松平治郷(不昧公)は財政改革を推進するとともに茶道「不昧流」を大成し、独自の茶の湯文化と城下町の成熟を促した。明治初年の廃城令により建造物が解体競売に付された際、地元有志らの尽力によって天守が買い戻され破却を免れた。平成27年(2015年)には天守造営時の祈祷札が再発見され、国宝に再指定された。

👀 見どころ

全国に12城のみ現存する現存十二天守の一つであり昭和27年解除を経て平成27年に国宝再指定を果たした四重五階地下一階の「現存国宝天守」(天守地階の現存井戸・包板の通し柱・祈祷札・天狗の間)、絵図や古写真に基づき伝統木造工法で忠実に復元された二之丸の「南櫓」「中櫓」「太鼓櫓」および木造復元土塀、堀尾吉晴期に築かれた荒々しい野面積み・打込接ぎの雄大な「高石垣群」、宍道湖の水位と連動し城郭を取り巻く完存した広大な「水堀(堀川)」と堀川めぐり遊覧船、小泉八雲旧居や武家屋敷が並ぶ国指定史跡「塩見縄手」の町並み、城内に建つ明治洋風建築の名作「興雲閣(島根県指定有形文化財)」、国宝碑・国指定史跡碑・案内板・堀尾吉晴公銅像

🍲 ご当地グルメ


城犬のおいど 攻城記録


駐車場


大手口


堀尾氏は豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦で武功をたてた堀尾忠氏(堀尾吉晴とする説もある)は慶長5年(1600)出雲・隠岐両国24万石(23万5千石とする説もある)を与えられ、広瀬の富田城に入城した。しかし、富田城はその周辺を高い山に取り囲まれ大砲などを使う近代戦に不利であったことと、侍を住まわせるに広大な城下町を形成しなければならなかったことなどの理由からこの極楽寺山(亀田山とも言う)に城地を移した。

築城工事は、慶長12年(1607)から足かけ5年を費やし慶長16年(1611)に一応の完成をみた。城地の広さは東西360米、南北560米あり、周囲に幅20~30米の内濠をめぐらす。標高28.1米の頂上部に本丸を置き、荒神櫓をはじめ6か所の櫓とそれをつなぐ細長い多門がめぐっている。天守は本丸の東北隅に築かれている。二之丸は、本丸の南側に一段低く隣接し御書院や御広間などがあった。本丸の東側の平地は二之丸下の段と呼ばれ藩士の扶持米などの米蔵が立ち並んでいた。その外、本丸の周囲には腰曲輪、中曲輪、外曲輪、後曲輪があった。

石垣用の石材は、松江市の東部、大海崎、福富地区の山麓から産出する安山岩(いわゆる大海崎石)が大量に使用され堀尾氏の家紋である分銅型などの刻印が認められる。城主は堀尾氏、京極氏と続くが、いずれも嗣子なく断絶した後、松平氏が10代続き一度の戦乱にまき込まれることなく明治維新を迎えた。 明治8年(1875)無用の長物と化した櫓や多門など多くの建物はことごとく壊されたが天守だけは旧藩士や豪農の懇請により保存されることになり山陰地方唯一の現存天守としてその威風堂々たる偉容を今も宍道湖畔に映し出している。
※現地説明版より

馬溜跡


南総門跡


二の丸下の段


太鼓櫓


太鼓櫓は、二之丸の北東角に建てられた平屋建ての櫓です。中櫓と同規模の櫓ですが、入口に庇が付くところが異なります。江戸時代前後から幕末までの文献や絵図には、いずれも「太鼓櫓」という名前で記されているように、城内に時刻や号令を告げる太鼓が置かれていた櫓であったことが考えられます。
※現地説明版より

二之丸下ノ段地区


二之丸下ノ段
東西100m、南北210mの広大な平地で江戸時代には米蔵がたくさんありました。北には屋敷地、南には幕末の頃、御破損方・寺社修理方(城や神社仏閣の建物修理事務所)がありました。堀尾時代の米蔵跡は、調査後平面整備しました。

御破損方・寺社修理方跡は発掘調査の結果、二棟の礎石建物跡が確認されたので同じ大きさの上屋を建て内部を茶店、売店に利用しています。
※現地二之丸下ノ段地区解説版より


二の丸跡


二之丸地区解説版


本丸南側の一段低い平地で、江戸時代には中央に御書院があり松平家二代藩主綱隆の時まで藩主の居宅となっていました。御書院の北には御殿女中の住居である局長屋、南には御月見櫓があり、ほかに御広間、御式臺、御作事小屋、番所、井戸がありました。また石垣に沿って二之門、三之門、定御番所、御門東之櫓、下雪隠、太鼓櫓、腰掛、中櫓、南櫓がありました。現在、西半部には明治36年建築の興雲閣(県指定文化財)と明治32年に東照宮を移築した松江神社があります。

三ノ門跡


二ノ丸定番所跡


松江城二ノ丸は松江松平藩二代綱隆公の時代《寛文6年(1666)~延宝3年(1675)》まで藩主の居住した御殿があった場所ですが、その御殿の入口を警備する人々が詰めていたのが、「二の丸番所」です。『松江城縄張図』《元禄5年頃(1692)》という古絵図を見ると、この付近には東西12間半(22.875m)・南北3間半(6.405m)の建物(番所跡)が記載されています。平成4年に松江市教育委員会で発掘調査を実施したところ、南北約3間半(6.3m)の台状の貼床(はりゆか)が検出されたので、ここには確かに番所跡があったものと考えられます。

二ノ門跡


国宝 松江城天守案内板


一ノ門跡


本丸


国宝 松江城天守


松江城天守は、四重五階地下一階の構造で、高さは約30mあり、貴重な現存天守のひとつとして、昭和10年に国宝指定を受けました。その後、文化財保護法の施行により、重要文化財に指定されましたが、平成27年7月8日、改めて国宝に指定されました。特徴は、前面に附櫓を設け、最上階から四方を見渡せる複合式望楼型天守であり、

白壁は少なく、黒く厚い板でおおわれた下見板張りで、石垣はごぼう積みと呼ばれる方式がとられています。軸組は、長さ二階分の通し柱と周囲に包板を鎹や帯鉄で取り付けた柱が多用されるなど独自の構法が用いられており、近世城郭最盛期を代表する城郭建築物として、極めて高い評価があります。平成24年5月に再発見された2枚の祈祷札から、慶長16年(1611)の完成が明らかとなりました。
※現地案内板より

天守入口


地階


俗称穴蔵の間(14坪)と呼ばれ、慶長初期の築造法で長期戦や、ろう城の場合も考え、ここに米や塩など食料物資を貯蔵した。中央には、深さ24メートルの自然石積の円形井戸があり、飲料水が得られた。
※現地説明版より

祈祷札


井戸


1階


包板


地階から4階の柱には、柱の周囲を板で包んだものがあります。柱の一面だけ、あるいは二面、三面、四面に板を張ったもので、包板と呼ばれる技法です。天守内の柱総数308本のうち現存は103本にこの技法が使われています。板は柱に鎹で固定され、さらに鉄輪で締められていますが、通し柱に施された包板も二階分を貫いておらず各階ごとの施工となっています。

粗悪材や柱の割れ隠しなど体裁を整えることを目的としながら補強効果も期待したものと考えられています。現存天守では松江城だけに見られる技法です。
※現地説明版より

太鼓


この太鼓は、松江城二之丸の太鼓櫓にあり、毎日登城の時刻を知らせ、非常呼集の際にも使われていた。明治初年、廃城に際し有志が買い取り、城下の阿羅波比神社に寄進したため現在に残る。
※現地説明版より

石落し


石落しは、石垣に接近したりよじ登ってくる敵兵に石を落としたり熱湯をあびせたりしてげき退するもの一層と二層の屋根の間を利用して作られている外部からは発見しにくい。四すみと東・西・北壁にある。
※現地説明版より

桐の階段


築城時からある桐の階段。敵が攻めてきた際に階段を取り外せるように、軽い素材の桐を使用したともいわれています。

箱便所


棟札


国宝指定書


松平直政公初陣之像


真田信繁(幸村)が守る真田丸を攻める14歳の松平直政の初陣姿で、信繁は、その勇ましい姿に軍扇を投げ与えたという。島根県安来市出身の彫刻家・米原雲海(1869~1925)製作の原型を彫刻家・得能節朗氏が写した「松平直政公初陣之像」である。
※現地説明版より

千鳥橋


この橋は、江戸時代には「御廊下橋」とよばれ、お城の中心部と藩主の館がありました三之丸御殿を結ぶ大変重要な橋で屋根がかかっていました。現在の橋は、屋根はありませんが絵図により橋脚を二ヵ所三本建てとし堅い国産のヒバの木を使い平成6年3月に完成したものです。
※現地説明版より

2018/1最終訪問


🧭 周辺の城郭マップ

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現在の城 訪問済 名城 一般
半径 10km 圏内の城郭(0 城)

🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

JR山陰本線松江駅北口からぐるっと松江レイクラインバスで約10分「松江城(大手前)」下車すぐ、または一畑電車北松江線松江しんじ湖温泉駅から徒歩約20分(松江市殿町・松江城山公園一帯、標高約29m、比高約25m)

車でのアクセス

山陰自動車道 松江中央ICまたは松江玉造ICから県道経由で北へ車で約15分

駐車場

有(城山大手前駐車場・城山本丸北駐車場等、普通車有料約150台)

📍 周辺地図

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