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100名城・続100名城 -
別称 都地原屋敷、都地城跡、細川館
城址碑 なし
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 30.4m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別居館
縄張平城
曲輪配置並郭式
築城者細川光行
築城年天文元年(1532年)頃
廃城年天正15年(1587年)頃
主な城主細川氏、都地氏
指定文化財指定なし

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 水堀あり・土塁あり・切岸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:30.4m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

都地城(とじじょう)は、福岡県福岡市西区大字金武の金武小学校北東付近、室見川西岸約300メートルの沖積平野微高地に築かれた戦国時代の平城(平地武士居館)跡である。『福岡県の中近世城館跡I』や福岡市埋蔵文化財包蔵地台帳に登載されている。かつては東西に土塁と水堀(堀川)で区画された二つの主副郭(並郭式)で構成されていた。現在の城域はほぼ一面の住宅地・宅地と化しているが、金武小学校近くの道路沿いに「都地城跡」の案内板が設置されており、郭間を隔てていた堀跡とされる水路や、民家の敷地境などにわずかな土塁の高まり・段差が残存する。室見川中流域の平野部や飯盛山城・高祖城と連携し、早良・志摩・怡土を繋ぐ交通路を管制した。

⚔️ 歴史的役割

天文元年(1532年)頃、後奈良天皇の北面の武士を務めていた細川蔵人光行が、室町幕府13代将軍・足利義輝(または前代義晴)の命を受け、筑前諸将の鎮撫と大内氏の支援のもと当地に派遣されて築城したと伝わる。光行の子孫は都地姓を名乗り、都地原屋敷に拠って土着した。永禄5年(1562年)、当時の城主・都地光行は近隣の有力国衆である安楽平城・小田部城の小田部氏と戦って47歳で討ち死にしたとされる。その後、子孫の左近助は小早川隆景の家臣となって早良郡代官を務めるなど領内行政に関与した。天正年間の龍造寺氏の筑前侵攻や天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州平定を経て、近世領主制の成立に伴い廃城となった。

👀 見どころ

金武小学校近くの路傍に設置された都地城跡の解説案内板、曲輪間を隔てていた水堀の名残を留める直線的な水路、宅地境にわずかに確認できる土塁状の高まりと敷地段差、室見川西岸の平野部に展開した中世領主居館の立地景観、西方の飯盛山城や高祖山城を仰ぎ見る位置関係と城主ゆかりの都地姓が今なお残る集落の歴史的風情

🍲 ご当地グルメ

博多ラーメン、博多もつ鍋、博多水炊き、室見川白魚料理(春季)、辛子明太子


おいど攻城記録


🧭 周辺10km圏内の城郭(8城)

🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

福岡市地下鉄七隈線橋本駅から西鉄バス(金武営業所行き等)で約10分「金武小学校入口」または「田村七丁目」下車、案内板まで徒歩約5分(または地下鉄七隈線次郎丸駅から徒歩約30分)

車でのアクセス

福岡都市高速環状線 福重出入口または野芥出入口から県道560号・国道263号経由で南西へ車で約10分

駐車場

なし

📍 周辺地図

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