概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 水堀あり・土塁あり・切岸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
都地城(とじじょう)は、福岡県福岡市西区大字金武の金武小学校北東付近、室見川西岸約300メートルの沖積平野微高地に築かれた戦国時代の平城(平地武士居館)跡である。『福岡県の中近世城館跡I』や福岡市埋蔵文化財包蔵地台帳に登載されている。かつては東西に土塁と水堀(堀川)で区画された二つの主副郭(並郭式)で構成されていた。現在の城域はほぼ一面の住宅地・宅地と化しているが、金武小学校近くの道路沿いに「都地城跡」の案内板が設置されており、郭間を隔てていた堀跡とされる水路や、民家の敷地境などにわずかな土塁の高まり・段差が残存する。室見川中流域の平野部や飯盛山城・高祖城と連携し、早良・志摩・怡土を繋ぐ交通路を管制した。
歴史的役割
天文元年(1532年)頃、後奈良天皇の北面の武士を務めていた細川蔵人光行が、室町幕府13代将軍・足利義輝(または前代義晴)の命を受け、筑前諸将の鎮撫と大内氏の支援のもと当地に派遣されて築城したと伝わる。光行の子孫は都地姓を名乗り、都地原屋敷に拠って土着した。永禄5年(1562年)、当時の城主・都地光行は近隣の有力国衆である安楽平城・小田部城の小田部氏と戦って47歳で討ち死にしたとされる。その後、子孫の左近助は小早川隆景の家臣となって早良郡代官を務めるなど領内行政に関与した。天正年間の龍造寺氏の筑前侵攻や天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州平定を経て、近世領主制の成立に伴い廃城となった。
見どころ
金武小学校近くの路傍に設置された都地城跡の解説案内板、曲輪間を隔てていた水堀の名残を留める直線的な水路、宅地境にわずかに確認できる土塁状の高まりと敷地段差、室見川西岸の平野部に展開した中世領主居館の立地景観、西方の飯盛山城や高祖山城を仰ぎ見る位置関係と城主ゆかりの都地姓が今なお残る集落の歴史的風情
ご当地グルメ
博多ラーメン、博多もつ鍋、博多水炊き、室見川白魚料理(春季)、辛子明太子