コンテンツへスキップ
100名城・続100名城 -
別称 高ノ山城、高田高の山城、高の山城跡
城址碑 なし
案内板 なし
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 123.4m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別砦
縄張山城
曲輪配置連郭式
築城者不明
築城年戦国時代
廃城年天正年間
主な城主秋月氏、大友氏
指定文化財指定なし

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 空堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:123.4m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

高の山城(たかのやまじょう)は、福岡県飯塚市高田(旧嘉穂郡筑穂町)の内住川東岸に沿って南北に延びる標高125.4メートル(比高約60メートル)の山頂稜線部に築かれた戦国時代の山城(砦)跡である。『福岡県の中近世城館跡I』や城郭放浪記等の専門台帳に登載されている。内住川流域の低地平野部に突き出た山塊に占地し、南北に細長く伸びる尾根上に主郭を配置している。主郭の南北両側には浅い二重堀切が掘削され、南東側へ続く尾根先や北側にかけて複数の平坦段曲輪が連郭状に配されている。後世の竹林化や開墾等による改変が見られるものの、曲輪縁辺部には切岸や土塁痕跡が残存する。内住川沿いの谷筋平野や穂波・嘉穂盆地西部、および冷水峠方面を連絡する古道ルートを眼下に俯瞰・扼する前哨要衝であった。

⚔️ 歴史的役割

築城年代や築城者の詳細は未詳であるが、戦国期に嘉穂・穂波郡一帯を領有した戦国大名・秋月氏の防衛ネットワークを構成する端城・哨戒砦の一つであったと推定される。西方の米ノ山城や南西の高石山城、北東の向山城などと連携し、太宰府・宝満山方面に拠る豊後大友氏(高橋紹運)勢力の東進を警戒・監視する軍事的最前線防衛ラインの一翼を担った。内住川沿いの街道筋は筑紫平野と嘉穂盆地を結ぶ山間交通の要所であり、敵軍の侵入を早期に察知して本城側へ急報する物見・警戒任務を果たしたと考えられる。天正年間の大友氏・秋月氏の境目抗争、さらに天正14年(1586年)の島津軍による筑前侵攻戦を経て、天正15年の豊臣秀吉による九州平定および秋月氏の日向高鍋移封に伴い、役割を終えて自然廃城となった。

👀 見どころ

山頂主郭の南北両端を遮断するように穿たれた浅い二重堀切遺構、内住川沿いに南北へ細長く延びる尾根筋の地形を活かした連郭式の段削平曲輪群、曲輪縁辺部に残存する切岸加工面および土塁痕跡、内住川流域低地平野を直下に押さえる天然の要害地形、標高125mの山頂部から高田集落・筑穂平野・内住川流域および三郡山地・米ノ山方面の稜線を見渡す哨戒拠点ならではの眺望景観

🍲 ご当地グルメ

飯塚名物ホルモン鍋、筑穂牛ステーキ・焼肉、たまごかけご飯(筑穂名物)、ひよ子本舗吉野堂銘菓、かます餅


おいど攻城記録


🧭 周辺10km圏内の城郭(25城)

🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

JR筑豊本線(原田線)上穂波駅から徒歩約25分(約1.8km)、または桂川駅からタクシーで約8分、高田集落東方の内住川沿い農道・山道を経て山頂主郭まで登山徒歩約15分

車でのアクセス

冷水道路(国道200号バイパス)内野ICから県道65号および国道200号バイパス経由で北へ車で約8分、または八木山バイパス 筑穂ICから車で約10分

駐車場

なし

📍 周辺地図

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

トップへ戻る