概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | なし | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
粟生谷城(粟生間谷城)は、大阪府箕面市粟生間谷西七丁目の勝尾寺川東岸、北摂山系から南へ張り出す標高約150メートル前後の丘陵斜面・尾根端部に位置した中世山城(砦・居館)跡である。勝尾寺川が形成する粟生の谷筋および山麓街道を見下ろし、西国街道の北方に広がる箕面東部・茨木北西部の境界地帯を扼する要所に占地していた。かつては丘陵頂部を削平した曲輪や切岸などの土木遺構が存在したとされるが、昭和後期以降の「粟生団地」「間谷住宅」をはじめとする大規模な宅地造成開発により山林・丘陵地形が大きく改変され、地上の城郭遺構は消滅している。大阪府の遺跡地図・埋蔵文化財包蔵地台帳に中世城館遺跡として登載されている。
歴史的役割
室町時代から戦国期にかけて粟生間谷・外院一帯に勢力を持った在地武士・福井氏に関連する支城、または有事の物見砦として築かれたと推測される。西方の善福寺原城(福井氏館)や勝尾寺、東方の豊川・福井地域を結ぶ交通結節点を見張り、谷筋を往来する敵勢力や流通を監視・防衛する軍事拠点として機能した。戦国時代後期には北摂を巡る三好氏・織田信長勢力・荒木村重らの抗争に巻き込まれ、天正6〜7年(1578〜1579年)の有岡城の戦い(荒木村重討伐戦)に伴う中川清秀・高山右近らの進軍・平定作戦の過程で役目を終え、廃城に至ったと考えられる。
見どころ
勝尾寺川上流の谷筋(粟生間谷)を見下ろす丘陵台地の傾斜地形、中世在地領主の動向を今に伝える「粟生」の歴史的集落景観、近接する勝尾寺旧参道沿いの風情
ご当地グルメ
もみじの天ぷら、箕面実生ゆず加工品、箕面ビール、北摂うどん、丁字屋のゆず羊羹