概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | 連結式 | 天守形式 | 望楼型 |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | あり(本丸御殿大広間、昭君之間復元) |
| 現存櫓 | あり(宇土櫓、源之進櫓、四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓、笹櫓、飯田丸五階櫓等) | 再建櫓 | あり(戌亥櫓、未申櫓復元等) |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | あり(不開門) | 再建門 | あり(頬当御門、南大手門、西大手門復元) |
| 現存土塀 | あり(長塀) | 再建土塀 | あり |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | あり(元:本丸通用門、先:宗岳寺山門) |
| 遺構 | 水堀あり・空堀あり・堀切あり・横堀あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。
概要
熊本城は、阿蘇山起源の火砕流台地である茶臼山丘陵先端部に築かれた屈指の近世平山城である。坪井川・井芹川を外堀として巧みに取り込み、本丸を中心に二の丸・三の丸を梯郭状に配する。「武者返し」と称される上部が垂直近くまで反り返る峻険な高石垣群が巡り、本丸には大天守と小天守が連結してそびえる。国の重要文化財である宇土櫓をはじめとする現存櫓群や国指定重要文化財の長塀、復元された本丸御殿大広間など多数の建造物が立ち並ぶ。特別史跡に指定されている。
歴史的役割
中世の千葉城・隈本城を母体として、肥後領主となった加藤清正が慶長期に天下普請並みの土木技術を結集して大改修し完成させた。島津氏に対する九州防備の要衝かつ軍事要塞として機能し、寛永9年(1632年)の加藤氏改易後は細川忠利が54万石で入封して明治維新まで細川氏の藩政の中心となった。明治10年(1877年)の西南戦争では西郷隆盛率いる薩摩軍の猛攻を約50日間にわたり凌ぎ切り、近世城郭としての卓越した防御性能を実戦で証明した。
見どころ
武者返しの高石垣群、国重文の現存宇土櫓(三層五階)、本丸御殿大広間・昭君之間、大天守・小天守、本丸直下の地下通路(闇り通路)、坪井川沿いの長塀
ご当地グルメ
熊本ラーメン、馬刺し、からし蓮根、太平燕(タイピーエン)、いきなり団子
おいど攻城記録
熊本城二の丸駐車場

二の丸広場


西大手門土橋


西大手土橋

西大手櫓門

北口券売所


宇土櫓
「三の天守」とも呼ばれる宇土櫓は、地上五階・地下一階、建物の高さは約19m、土台石垣の高さは21m以上と大天守に次ぐ大きさです。西南戦争直前に大小天守は炎上しましたが、宇土櫓は焼けずに残りました。熊本城では江戸時代から残る唯一の五階櫓です。平成28年(2016)の地震では、南に付く続櫓が倒壊し、五階櫓の壁漆喰・床などが破損しました。土台石垣も大きく膨らんだ箇所があります。
※現地説明版より

西大手櫓門・元太鼓櫓


天守入口

摩擦ダンパー







天守閣
大天守内部は地上六階地下一階、小天守内部は地上四階地下一階の建物です。明治10年(1877)西南戦争直前に焼失し、現在の天守は昭和35年(1960)に古写真などを基に再建されたものです。白漆喰と黒い下見板の調和が力強く、大天守最上階の出窓には「唐破風」という曲線の装飾、下の階には「千鳥破風」という反りが美しい装飾も施されています。現在も「熊本の誇り」といえる建物です。
※現地説明版より

大イチョウ
加藤清正お手植えと伝わるイチョウは、明治10年(1877)の火災により、天守や本丸御殿などとともに焼失しました。その後イチョウの根元から新芽が出て成長し、現在は大イチョウとして親しまれています。焼けたイチョウは大イチョウの脇に残り、火災の激しさを物語っています。銀杏を非常食にしたとも言われていますが、雄の木で実はなりません。
※現地説明版より

井戸

本丸御殿
本丸御殿大広間は、かつて藩主の会見や儀式を行う場所として使用していました。大広間の北側は、藩主の私的空間である居間や台所などがありました。明治10年(1877)の焼失を経て、現在は井戸や大イチョウだけが残っています。平成20年(2008)本丸御殿大広間、台所棟、数寄屋棟を木造で復元しました。平成28年熊本地震で被災し、現在は内部非公開です。
※現地説明版より

本丸お休み処


闇り御門
本丸御殿は2つの石垣を跨ぐように建っているため、地下通路を有する特異な構造となっています。その地下通路は昼間でも暗いことから、闇り御門と呼ばれ、その上部の屋根は唐破風となっています。
※現地説明版より








飯田丸
目の前の石垣に囲われた空間は「飯田丸」と呼ばれる曲輪で、南に竹の丸、西に南坂(現在の行幸坂)を望み、本丸の南西を防衛する拠点となる場所です。平成28年熊本地震で、飯田丸五階櫓石垣の東面の一部が崩落し、南東の隅石のみで櫓を支えた状態になったことから「一本石垣」と呼ばれました。櫓と石垣は調査を経て解体され、石垣は令和6年(2024)1月に復旧が完了しました。
※現地説明版より



数寄屋丸
正面には、天守南西に位置する数寄屋丸の石垣が見えます。「数寄屋」という名称から、茶会などが催されていたとみられます。平成元年(1989)に木造で復元された数寄屋丸二階御広間の西には、数寄屋丸五階櫓台石垣があります。熊本地震では、五階櫓台石垣や二階御広間の石垣などが崩落しました。
※現地説明版より


奉行丸

未申櫓

行幸坂

櫨方門
ここは江戸時代から「山崎口」と呼ばれる入口です。櫨方門は、現在の加藤神社敷地にあったものを昭和35年(1960)に移設し料金所にも使用していました。平成28年(2016)の地震により門が損傷し、周囲の石垣も崩落しました。「櫨方」とは「ろうそく」の原料となるハゼの実を管理していた役所のことです。なお、「竹の丸」のこの一帯は築城までは白川の河原だったようです。
※現地説明版より

加藤清正公像

熊本城顕彰碑

馬具櫓
熊本城の南の入口を守る一階建ての櫓で、馬具を納めたと納めたと思われますが記録は見つかっていません。江戸時代には櫓正面に「下馬橋」が架かっていました。櫓は西南戦争前に解体され、石垣は砲台として使われました。現在の櫓は平成26年(2014)に木造で復元したものです。平成28年(2016)4月16日の本震で石垣に膨らみが生じ、度重なる余震の影響で5月10日に崩落しました。
※現地説明版より



行幸橋

陸軍病院玄関前石垣

未申櫓


井戸

加藤神社



過去の熊本城







