概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | 独立式 | 天守形式 | 望楼型 |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | あり(模擬天守/三層四階RC造復興天守、隅櫓RC造復興) |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | あり(冠木門復元、一ノ門復元) |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | あり(山頂・居館跡土塀復元) |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | あり(元:城門伝承、先:市内崇福寺山門・本巣市浄秀寺山門等) |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
岐阜城(ぎふじょう)は、岐阜県岐阜市米廩谷洞の濃尾平野北端にそびえる急峻な金華山(標高約329メートル、比高約310メートル)山頂および山麓に築かれた織豊期の代表的山城跡である。「稲葉山城」とも称され、国の史跡、日本100名城に選定。建仁年間に二階堂行政が砦を築いたことに始まり、戦国期に斎藤道三が要塞化、永禄10年(1567年)に織田信長が攻略して城下町とともに地名を「井口」から「岐阜」へと改めた。山頂の天守・本丸からは濃尾平野や長良川を一望でき、チャートの岩盤上に野面積み石垣が築かれた。山麓の発掘調査では、ルイス・フロイスが絶賛した巨石石垣と人工庭園を伴う四層の「織田信長公居館跡」が検出され、迎賓と政庁機能を併せ持つ革新的な城郭構造が解明された。昭和31年に再建された三層四階の復興天守が金華山頂にそびえ、岐阜市のシンボルとなっている。
歴史的役割
斎藤道三の下剋上の本拠であり、永禄10年に織田信長が攻略後は「天下布武」を本格的に掲げた天下統一事業の重要拠点となった。信長は尾張から本拠を移して岐阜城を政治・軍事・文化の統合拠点とし、山麓に大規模な城下町を拓いて「楽市楽座」令を発布するなど経済改革を推進した。天正3年(1575年)に嫡男・織田信忠に家督と岐阜城を譲った後、信長自身は安土城へ移ったが、本能寺の変後は織田信孝、池田輝政、織田秀信(三法師)らが城主を務めた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦では、西軍に与した秀信が籠城するも福島正則・池田輝政ら東軍の猛攻を受けて落城。戦後、徳川家康により岐阜城は廃城とされ、天守や櫓・石垣などの建材は加納城の築城に転用された。天険の要害でありながら近世城郭の先駆的プランを体現した歴史的意義を持つ。
見どころ
金華山頂(標高329m)にそびえ濃尾平野・伊吹山・長良川・名古屋市街を360度見渡す「復興天守」からの大パノラマ(夜景スポット)、チャートの岩盤上に築かれた信長・道三期の荒々しい「野面積み石垣」および山頂本丸・二ノ丸遺構群、山麓の岐阜公園内で発掘・整備され水路や巨石石垣が露出展示される「織田信長公居館跡(庭園・迎賓館遺構)」、山頂の軍事要塞と山麓の政治・居住空間が明確に分かれた二重構造、急峻な尾根を断ち切る堀切や切岸・井戸跡(金竜丸井戸)、岐阜市歴史博物館や信長公居館発掘調査案内所、山麓と山頂を結ぶ金華山ロープウェーおよび多彩な登山道(百曲がり・馬の背・めい想の小径)、国指定史跡碑・案内板・若き日の織田信長公銅像
ご当地グルメ
岐阜名物鮎料理(長良川天然鮎の塩焼き・鮎雑炊・鮎寿し)、飛騨牛料理(ステーキ・牛丼)、岐阜タンメン、高山ラーメン・中華そば、美濃銘菓水うちわ・鮎菓子(求肥入りカステラ菓子)
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
※半径10km以内に登録されている他の城郭はありません。