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100名城・続100名城 117番
別称 岩櫃要害、吾妻城、岩櫃城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 592.3m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別城郭
縄張山城
曲輪配置連郭式・階郭式複合
築城者吾妻太郎助盛(伝承・斎藤氏)
築城年応永年間(1394〜1428年頃伝承、武田信玄・真田幸隆大改修は永禄6年・1563年)
廃城年元和元年(1615年)
主な城主斎藤氏、真田氏
指定文化財国指定史跡

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:592.3m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

岩櫃城(いわびつじょう)は、群馬県吾妻郡東吾妻町大字原町等に所在する岩櫃山(標高約802メートル)東面中腹の険峻な山腹(標高約594メートル、比高約200メートル)に築かれた中世屈指の巨大山城跡である。国の史跡、続日本100名城に選定。中世吾妻氏・斎藤氏の居城を起源とし、永禄6年に武田信玄の命を受けた真田幸隆が奪取・大改修した。奇岩怪石が屹立する天然の絶壁を背後に控え、東に伸びる尾根上に本丸、二の丸、中城、本丸裏の天狗丸、笹郭などを階段状に配置。尾根を遮断する豪快な大堀切や二重堀切、山肌を長大に穿った竪堀群、巨大な切岸が完璧な要塞線を形成する。さらに山麓には「観音山」「素肌神社」「郷原」などの支城・出城群や家臣屋敷群が連なり、城域全体で約173ヘクタールに及ぶ広大な城郭複合体を構成している。石垣を用いず地形と土木工事を極限まで駆使した戦国期「土の城」の到達点として名高い。

⚔️ 歴史的役割

武田信玄の西上野侵攻における最重要拠点であり、信濃の真田氏が上野へ勢力を拡大する大跳躍台となった。幸隆・昌幸父子が城代・城主を務め、吾妻郡支配および越後上杉氏・小田原北条氏への防衛前線として重責を担った。天正10年(1582年)の織田信長による甲州征伐で武田勝頼が窮地に陥った際、真田昌幸は新府城を脱出して岩櫃城へ迎えて再起を図るよう強く進言し、御殿(潜龍院)を急造して勝頼を待ったが、勝頼が小山田信茂の岩殿城へ向かい自刃したことで実現しなかった悲劇の逸話が残る。武田氏滅亡後の天正壬午の乱を経て真田氏の独立拠点となり、沼田城とともに真田領の上野国防衛の要として機能した。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では東軍についた真田信之の支配下となり、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となった。

👀 見どころ

岩櫃山の断崖絶壁を背に平坦面を確保した広大な「本丸跡」および背後の防御拠点「天狗丸」、本丸と二の丸・中城を豪快かつ鋭利に断ち切る深さ十数メートルの壮大な「大堀切」群、山腹斜面を長大に穿ち敵の横移動を封じた「竪堀群」、武田勝頼を迎えるために真田昌幸がわずか数日で急造したと伝わる「潜龍院跡(石組・礎石遺構)」、岩櫃山東麓に広がる家臣団屋敷や根小屋遺構、城郭の背後にそびえ立つ標高802mの岩峰・奇岩怪石の景勝「岩櫃山(国の名勝指定)」、平沢登山口案内所に設置されたガイダンス展示・続日本100名城スタンプ、国指定史跡碑・案内板

🍲 ご当地グルメ


おいど攻城記録


🧭 周辺10km圏内の城郭(0城)

※半径10km以内に登録されている他の城郭はありません。

🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

JR吾妻線群馬原町駅から登城口(平沢登山口・岩櫃山平沢登山口観光案内所)まで徒歩約35〜40分(タクシー利用約8分)、またはJR吾妻線郷原駅から古谷登山口経由で徒歩約45分(吾妻郡東吾妻町大字原町・岩櫃山中腹一帯、本丸標高約594m、比高約200m、岩櫃山山頂標高約802m)

車でのアクセス

関越自動車道 渋川伊香保ICから国道17号・国道353号・国道145号経由で北西へ車で約40〜45分

駐車場

有(岩櫃山平沢登山口駐車場・案内所駐車場、無料約30台)

📍 周辺地図

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