概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
岩櫃城(いわびつじょう)は、群馬県吾妻郡東吾妻町大字原町等に所在する岩櫃山(標高約802メートル)東面中腹の険峻な山腹(標高約594メートル、比高約200メートル)に築かれた中世屈指の巨大山城跡である。国の史跡、続日本100名城に選定。中世吾妻氏・斎藤氏の居城を起源とし、永禄6年に武田信玄の命を受けた真田幸隆が奪取・大改修した。奇岩怪石が屹立する天然の絶壁を背後に控え、東に伸びる尾根上に本丸、二の丸、中城、本丸裏の天狗丸、笹郭などを階段状に配置。尾根を遮断する豪快な大堀切や二重堀切、山肌を長大に穿った竪堀群、巨大な切岸が完璧な要塞線を形成する。さらに山麓には「観音山」「素肌神社」「郷原」などの支城・出城群や家臣屋敷群が連なり、城域全体で約173ヘクタールに及ぶ広大な城郭複合体を構成している。石垣を用いず地形と土木工事を極限まで駆使した戦国期「土の城」の到達点として名高い。
歴史的役割
武田信玄の西上野侵攻における最重要拠点であり、信濃の真田氏が上野へ勢力を拡大する大跳躍台となった。幸隆・昌幸父子が城代・城主を務め、吾妻郡支配および越後上杉氏・小田原北条氏への防衛前線として重責を担った。天正10年(1582年)の織田信長による甲州征伐で武田勝頼が窮地に陥った際、真田昌幸は新府城を脱出して岩櫃城へ迎えて再起を図るよう強く進言し、御殿(潜龍院)を急造して勝頼を待ったが、勝頼が小山田信茂の岩殿城へ向かい自刃したことで実現しなかった悲劇の逸話が残る。武田氏滅亡後の天正壬午の乱を経て真田氏の独立拠点となり、沼田城とともに真田領の上野国防衛の要として機能した。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では東軍についた真田信之の支配下となり、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となった。
見どころ
岩櫃山の断崖絶壁を背に平坦面を確保した広大な「本丸跡」および背後の防御拠点「天狗丸」、本丸と二の丸・中城を豪快かつ鋭利に断ち切る深さ十数メートルの壮大な「大堀切」群、山腹斜面を長大に穿ち敵の横移動を封じた「竪堀群」、武田勝頼を迎えるために真田昌幸がわずか数日で急造したと伝わる「潜龍院跡(石組・礎石遺構)」、岩櫃山東麓に広がる家臣団屋敷や根小屋遺構、城郭の背後にそびえ立つ標高802mの岩峰・奇岩怪石の景勝「岩櫃山(国の名勝指定)」、平沢登山口案内所に設置されたガイダンス展示・続日本100名城スタンプ、国指定史跡碑・案内板
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
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