概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
北畠氏館(きたばたけしやかた)は、三重県津市美杉町上多気に所在する雲出川上流の山あいに築かれた伊勢国司・北畠氏約240年間の本拠居館跡である。「多気御所」とも称され、国の史跡(霧山城跡と一括指定)、続日本100名城に選定。南朝の重鎮・北畠顕能が南朝方の恒久拠点として築いた。背後の山頂に詰城である霧山城(標高約560メートル)を控え、山麓の傾斜地に主殿(御所)、庭園、家臣団屋敷などを階段状に配する典型的な「根小屋(山麓居館)と詰城」の複合構造を持つ。敷地を囲む重厚な土塁や空堀、石垣、桝形虎口が明瞭に残る。館跡の一角に造営された「北畠氏館跡庭園」は室町幕府管領・細川高国によって作庭されたと伝わり、国の名勝および史跡に二重指定されている。池泉鑑賞式枯山水の手法を取り入れた中世武家庭園の傑作として全国的に極めて高い評価を受けており、現在は北畠神社境内として整備・保存されている。
歴史的役割
伊勢国司として南朝を軍事・政治・精神面で支え続けた名門・北畠氏の本拠地として栄えた。三方を山に囲まれた多気の地は天然の要害であり、京都・大和・吉野と伊勢志摩・熊野を結ぶ交通・連絡路を掌握した。戦国時代には北畠具教の代に最盛期を迎え、公家文化と武家文化が高度に融合した「多気文化」を花開かせた。しかし永禄12年(1569年)、織田信長による伊勢侵攻(大河内城の戦い)により信長の次男・信雄(茶筅丸)を養子に迎えて和睦。天正4年(1576年)、信長・信雄父子の謀略により具教をはじめとする一族が三瀬御所で暗殺される「三瀬の変」が勃発。続いて織田軍が多気に攻め入り、詰城の霧山城とともに館も焼き討ちされ、北畠氏宗家は滅亡・廃絶となった。近世の大規模改変を受けていないため、中世国司の居館構造と優美な庭園遺構が当時のまま現代に留められている。
見どころ
中世武家庭園の最高峰として国指定名勝・史跡に指定された池泉鑑賞式「北畠氏館跡庭園(米字池・石組・築山遺構)」、館跡の周囲をめぐる重厚な「土塁」および館を区画する「空堀(堀切)」跡、土留めや虎口に用いられた「野面積み石垣」、北畠顕能公を主祭神として祀る「北畠神社」社殿および境内、背後の山頂に連なり詰城の遺構を完存する国指定史跡「霧山城跡(詰山城)」、館跡から出土した陶磁器等の資料を展示し続日本100名城スタンプが置かれた「美杉ふるさと資料館」、紅葉の名所としても名高い幽玄な神社社叢景観、国指定史跡碑・名勝碑・案内板
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
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