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100名城・続100名城 155番
別称 赤木要害、赤木城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 236.5m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別城郭
縄張平山城
曲輪配置連郭式・梯郭式複合
築城者藤堂高虎
築城年天正17年(1589年)頃
廃城年慶長20年・元和元年(1615年)
主な城主藤堂氏、浅野氏
指定文化財国指定史跡

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 空堀あり・堀切あり・横堀あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:236.5m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

赤木城(あかぎじょう)は、三重県熊野市紀和町赤木に所在する紀伊山地奥深くの盆地状平野に突き出た独立丘陵(標高約230メートル、比高約30〜40メートル)に築かれた織豊期の平山城跡である。「東海の竹田城」「天空の城」とも称され、国の史跡、続日本100名城(180番)に選定。豊臣秀長(秀吉の弟)の命を受けた築城の名手・藤堂高虎が、北山一揆を鎮圧・統制するために天正17年頃に築造した。最高所の本丸を中心に、東郭、西郭、南郭、北郭、鍛冶屋敷を配する連郭・梯郭式構造を持つ。丘陵全体に野面積みの主郭高石垣、横矢掛かりの屈折、枡形虎口が巧みに構築され、山林と雲海に包まれる孤高の城郭景観を誇る。近世城郭への過渡期における初期石垣普請と織豊系軍事要塞の構造を色濃く残し、後世の大規模な破却や改変を免れて当時の石垣遺構がほぼ完全な姿で奇跡的に残されている。

⚔️ 歴史的役割

豊臣政権による紀州征伐後、検地や刀狩に激しく抵抗した紀伊奥地の在地勢力(地侍・土豪ら)による「北山一揆(熊野一揆)」を軍事的に制圧・監視・平定する最前線要塞として機能した。高虎は一揆を鎮圧した後、田平子の河原(田平子首塚)にて一揆勢の指導者ら多数を斬首・処刑したと伝えられる。豊臣秀長の没後は秀吉の直轄領(蔵入地)となり、代官を務めた高虎が支配を維持した。関ヶ原合戦後に紀伊に入封した浅野幸長・長晟の支配下に入ったが、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に際して再び蜂起した大規模な北山一揆の鎮圧拠点としても使われた。翌元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となった。過酷な一揆弾圧の歴史的記憶を留めるとともに、藤堂高虎の築城術の原点・初期作例を実証する学術上極めて重要な城館遺構である。

👀 見どころ

築城の名手・藤堂高虎の初期築城術を物語る野面積み・自然石乱積みの壮麗な「本丸・東郭高石垣群」、侵入者を十字砲火で迎撃する精緻な「枡形虎口」および「横矢掛かり」構造、主郭を取り巻く帯曲輪・段郭群と郭間を画する「堀切・横堀」、秋から冬の早朝に発生する朝霧が城跡を包み込む幻想的な「天空の城・雲海景観」、城下から山頂主郭まで続く風情ある石段登城路、北山一揆の激戦と処刑の歴史を今に伝える城麓の関連史跡「田平子首塚」、主郭から見渡す紀和町赤木の棚田風景や奥熊野の山並みの絶景、国指定史跡碑・案内板

🍲 ご当地グルメ


おいど攻城記録


🧭 周辺10km圏内の城郭(0城)

※半径10km以内に登録されている他の城郭はありません。

🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

JR紀勢本線熊野市駅から熊野市自主運行バス(瀞流荘行)で約45分「瀞流荘」下車、タクシーで約10分、またはJR熊野市駅から車・タクシーで約30〜40分(熊野市紀和町赤木・独立丘陵一帯、主郭標高約230m、比高約30〜40m)

車でのアクセス

熊野尾鷲道路 熊野大泊ICから国道42号・国道311号および県道40号経由で南西へ車で約40分、または尾鷲北ICから約1時間

駐車場

有(赤木城跡駐車場、無料約20台)

📍 周辺地図

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