概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | あり(元:大手門、先:八百津町大仙寺中門/町指定文化財等) |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
金山城(かなやまじょう)は、岐阜県可児市兼山に所在する木曽川南岸の急峻な独立峰・古城山(標高約276メートル、木曽川水面からの比高約170メートル)に築かれた織豊期の山城跡である。「兼山城」「烏峰城」とも称され、国の史跡、続日本100名城に選定。天文6年に斎藤道三の養子・斎藤正義が烏峰城として築城したことに始まる。山頂の本丸を中心に二の丸、南腰曲輪、西腰曲輪、出丸(米蔵跡)などを階段状・連郭状に配する。北面を木曽川の断崖絶壁に守られ、南面・西面の緩斜面には破城の痕跡を留める野面積み高石垣群、枡形虎口、段状の切岸、堀切が巧みに構築された。近年の発掘調査では本丸周囲から瓦葺き礎石建物跡や金箔瓦、輸入陶磁器が出土し、信長側近の森氏が本拠にふさわしい最高水準の織豊系城郭へと大改修していた実態が明らかとなった。東美濃を代表する総石垣山城の遺構が良好に遺存している。
歴史的役割
東美濃の軍事・交通の要衝および木曽川舟運の重要拠点を統治する拠点として機能した。永禄8年(1565年)、織田信長東美濃攻略の尖兵として森可成が入城し「金山城」と改称。可成が志賀の陣で討死した後は、長男の森長可(鬼武蔵)、次男の森蘭丸(長定)、忠政へと受け継がれ、武田氏に対する防衛前線や小牧・長久手の戦いにおける重要拠点となった。慶長5年(1600年)、森忠政が信濃川中島13万7千石へ加増転封となった後、犬山城主・小笠原吉次が領有したが、同年の関ヶ原合戦後に破城令が下り廃城となった。その際、天守や櫓、門などの建造物が解体されて犬山城へ移築されたとする「兼山新宿伝承」が有名である。廃城時に石垣の角部が意図的に崩される「破城(城割り)」が行われたが、その破壊痕跡を伴う石垣遺構が極めて鮮明に残されており、戦国末期の破城実態を伝える考古学上の第一級史料となっている。
見どころ
破城令による意図的な破壊痕跡(角部崩落等)を生々しく留める「本丸野面積み石垣群」および「天守台石垣跡」、本丸入口に構えられた厳重な迎撃拠点「本丸枡形虎口」遺構、八百津町大仙寺の中門として移築現存する「旧金山城大手門(町指定文化財)」、尾根筋を豪快に遮断する「堀切」や山腹を削り落とした険峻な「切岸」、長期籠城を支えた山頂直下の「井戸跡(水の手)」、山麓に位置し森一族の甲冑・古文書展示や続日本100名城スタンプを備える「可児市兼山歴史民俗資料館」、本丸展望台から見下ろす木曽川の雄大な蛇行美と御嶽山・中央アルプスの絶景、国指定史跡碑・案内板
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
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