概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | あり(隠殿屋敷・五島氏庭園内) | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | あり(蹴出門、二の丸裏門) | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | あり(本丸石垣上土塀・隠殿築地塀) | 再建土塀 | あり(城門周辺塀復元) |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 水堀あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
福江城(ふくえじょう)は、長崎県五島市池田町に所在する福江島東岸の入江低平地(標高約4メートル)に築かれた福江藩(五島藩)1万2千石余の本拠たる近世平水城跡である。「石田城」とも称され、長崎県指定史跡、庭園部分は国指定名勝、続日本100名城(185番)に選定。幕末の文久3年(1863年)に完成した日本最後の近世城郭として名高い。寛永期に焼失した江川城に代わり長く陣屋統治が続いたが、異国船来航に危機感を募らせた幕府の異例の許可を得て、第30代藩主・五島盛成が着工し盛徳が完成させた。本丸を中心に二の丸、北の丸を配し、三方を外海(東シナ海)の海水を引き込んだ海水水堀で囲む典型的な海城縄張を持つ。石垣には海食崖の巨石や玄武岩が多用され、野面積みと切込接ぎが併用されている。現在も本丸・二の丸の石垣群、水堀、蹴出門が現存し、二の丸跡には県立五島高校、隠殿跡には国名勝の五島氏庭園が残る。
歴史的役割
幕末の海防強化および東シナ海・対外航路の沿岸防備の中枢拠点として激動の時代に誕生した。五島列島は古来より遣唐使船の寄港地であり、近世以降も異国船の出没が相次ぐ国防の最前線であった。黒船来航以前から海防の危機を訴えていた五島盛成は幕府へ築城を再三懇願し、異国警備の重要性を認めた幕府により嘉永元年に築城が勅許された。当時の最新砲術や台場技術が取り入れられ、城郭正面や海岸線には異国船の進入を撃退するための台場・砲台が連動して配備された。しかし完成からわずか5年後の明治元年(1868年)に明治維新を迎え、明治5年の廃城令により建造物の大半が解体・払下げとなった。完成から廃城まで十数年という極めて短命な城郭でありながら、近世城郭史上最後に完成した石垣水城の実態と、幕末維新期の切迫した国防政策の集大成を今に伝える極めて貴重な歴史的記念碑である。
見どころ
海城の構造を今に留め海水が満ち引きする幅広の「外堀(水堀)」および海石(玄武岩)を豪快に積んだ「本丸・二の丸高石垣群」、城内に現存する貴重な江戸末期の木造城門「蹴出門」および「二の丸裏門」、第30代藩主・五島盛成の隠居所として建てられ数寄屋風建築の御殿が現存する「隠殿屋敷(現存御殿・五島氏庭園)」、京都・鹿苑寺(金閣寺)庭園を模し「心」の字を象った池泉回遊式の名園「国指定名勝・五島氏庭園」、二の丸跡の石垣上を校門として活用する「長崎県立五島高等学校(城郭高校)」の特異な景観、城郭敷地内に建ち福江藩政資料や遣唐使船模型を展示し続日本100名城スタンプが置かれた「五島観光歴史資料館」、長崎県指定史跡碑・案内板