概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
勝山館(かつやまだて)は、北海道檜山郡上ノ国町字勝山に所在する日本海に面した急峻な独立丘陵(夷王山に連なる標高約100メートル)頂部に築かれた中世和人地の政治・軍事・通商拠点たる山城館跡である。「上ノ国勝山館」とも称され、国の史跡(上ノ国館跡のうち勝山館跡)、続日本100名城(101番)に選定。松前藩の始祖である武田信広(蠣崎氏)が長禄・寛正年間に築いた。日本海および天の川河口を眼下に見下ろす尾根上に展開し、北東側と南西側を長大な空堀・大堀切・木柵列で遮断。郭内には館主の居住する大規模な主殿・掘立柱建物群、工房、倉庫、武家屋敷、井戸、さらに墓地群(約200基の土壙墓等)が整然と区画配置されていた。発掘調査では中国産青磁・白磁、染付、朝鮮陶磁、和鏡、国産漆器、アイヌ民族特有の骨角器や装飾品など数万点以上の重要遺物が極めて良好に出土し、中世北方交易の繁栄を物語る遺跡として日本考古学上屈指の評価を受けている。
歴史的役割
室町期から戦国期にかけての蝦夷地において、和人勢力(渡党・道南十二館)の結束およびアイヌ民族との共生・抗争・交易を統御する道南支配の最前線拠点として機能した。コシャマインの戦い(1457年)で和人の拠点が次々と陥落する中、若き武田信広はアイヌ軍を撃退して頭角を現し、勝山館を築いて強固な防衛基盤を確立。以後、松前氏の祖として蝦夷地支配を固めた。館内からは和人とアイヌの人々が共存・混住していた痕跡が多数確認されており、単なる軍事要塞にとどまらず、北方民族や日本本土、中国大陸・朝鮮半島を結ぶ環日本海交易の中継都市として機能した。天正年間以降、蠣崎氏(松前慶広)は拠点を徳山館(松前町)、ついで福山城(松前城)へと順次南下・移転させたため、慶長年間初頭に廃城となった。近世の大規模改修や都市化を一切受けなかったため、中世北方城郭都市の全容が奇跡的な保存状態で遺存している。
見どころ
尾根筋を豪快に遮断し往時の防御ラインを示す深さ約4m・幅約7mの圧巻の「大堀切(空堀)」および「土塁」遺構、発掘成果に基づき現地に忠実再現された「木柵列」「枡形門跡」の復元施設、掘立柱建物跡や鍛冶工房跡が整然と並び往時の城内集落構造を伝える「建物跡遺構表示群」、和人とアイヌ双方の埋葬形態が混在し共生を実証する「中世墓地跡」、出土した膨大な貿易陶磁器・漆器・骨角器・武具などの国指定重要文化財を展示し続日本100名城スタンプが置かれた「勝山館跡ガイダンス施設」、山頂から見渡す日本海・天の川河口の絶景、松前家始祖・武田信広を祀る隣接の「夷王山神社」、国指定史跡碑・案内板