コンテンツへスキップ
100名城・続100名城 140番
別称 内中尾城、柳ヶ瀬城、玄蕃尾要害、玄蕃尾城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 461.1m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別陣城
縄張山城
曲輪配置連郭式・梯郭式複合
築城者柴田勝家(または朝倉義景)
築城年天正11年(1583年)頃(元亀4年・1573年の朝倉氏築城説あり)
廃城年天正11年(1583年)
主な城主柴田氏、朝倉氏
指定文化財国指定史跡

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 空堀あり・堀切あり・横堀あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:461.1m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

玄蕃尾城(げんばおじょう)は、滋賀県長浜市余呉町柳ケ瀬と福井県敦賀市刀根の境界をなす柳ヶ瀬越中腹の内中尾山山頂(標高約459メートル、比高約250メートル)に築かれた織豊期の巨大陣城跡である。「内中尾城」とも称され、国の史跡、続日本100名城に選定。本丸(主郭)が近江側に所在するため長浜市に帰属する。天正11年の賤ヶ岳の戦いにおいて、羽柴秀吉と天下の覇権を争った柴田勝家が本陣として大改修・構築した。南北約250メートル、東西約150メートルの規模を持ち、中央の本丸を最高所に配し、南北に馬出、二の丸、三の丸、搦手郭を直線状かつ梯郭状に整然と配置している。各郭の周囲には高さ2〜3メートルの重厚な土塁が巡り、深さ4〜6メートルの空堀(大堀切・横堀)や虎口、土橋が完備されている。石垣を一切用いず土木技術のみで極めて精緻に設計された戦国期「土の城」の最高傑作として名高い。

⚔️ 歴史的役割

天正10年(1582年)の本能寺の変後、清洲会議を経て激化した柴田勝家と羽柴秀吉の武力衝突「賤ヶ岳の戦い(1583年)」において、勝家率いる越前・北陸軍団の最高指揮所(本陣)として機能した。北陸と近江を結ぶ北国街道および柳ヶ瀬越えを完全に制圧・監視する地政学的重要性を担った。勝家はこの堅城に拠って秀吉の美濃出兵を牽制したが、前線で大岩山砦を急襲・占領した先鋒・佐久間盛政が勝家の退却命令を無視して突出。秀吉の「美濃大返し」により包囲された盛政を救援すべく戦線が崩壊し、さらに友軍の前田利家らが戦線を離脱したことで柴田軍は総崩れとなった。勝家は本城から本拠の越前北ノ庄城へ退却を余儀なくされ、城内で自刃して敗北した。合戦後、後世の改変を一切受けることなく放棄されたため、戦国末期の陣城の遺構が築城当時のまま奇跡的に完存している。

👀 見どころ

土木技術の粋を集め高さ2m超の土塁に囲まれた広大な柴田勝家の本陣「本丸跡(主郭)」、本丸と二の丸・馬出を峻険に分断する深さ約4〜6m・幅約8mの圧巻の「大空堀・堀切」群、侵入経路に厳重な防衛線を敷く「南北の馬出郭」および「直線土橋」遺構、敵に横矢を浴びせるため土塁線を屈折させた「横矢掛かり」と「枡形虎口」構造、山頂尾根の要害地形を最大限に活かした直線連郭の縄張美、後世の改変を免れ戦国当時の姿をほぼ完璧に留める奇跡的な土塁保存状態、本丸から賤ヶ岳・余呉湖方面や越前・近江国境の山並みを見渡す眺望、国指定史跡碑・案内板

🍲 ご当地グルメ


おいど攻城記録


🧭 周辺10km圏内の城郭(0城)

※半径10km以内に登録されている他の城郭はありません。

🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

JR北陸本線余呉駅からタクシーで登山口(柳ヶ瀬口)まで約15分、登山口から山頂本丸まで徒歩約40分、またはJR敦賀駅からタクシーで約25分(滋賀県長浜市余呉町柳ケ瀬および福井県敦賀市刀根の県境・行市山支脈内中尾山山頂一帯、本丸標高約459m、比高約250m)

車でのアクセス

北陸自動車道 木之本ICから国道365号経由で北へ車で約20分(登山口駐車場まで)、または敦賀ICから国道8号・国道161号・県道経由で約25分

駐車場

有(玄蕃尾城跡登山口駐車場、無料約15台)

📍 周辺地図

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

トップへ戻る