概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・横堀あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
玄蕃尾城(げんばおじょう)は、滋賀県長浜市余呉町柳ケ瀬と福井県敦賀市刀根の境界をなす柳ヶ瀬越中腹の内中尾山山頂(標高約459メートル、比高約250メートル)に築かれた織豊期の巨大陣城跡である。「内中尾城」とも称され、国の史跡、続日本100名城に選定。本丸(主郭)が近江側に所在するため長浜市に帰属する。天正11年の賤ヶ岳の戦いにおいて、羽柴秀吉と天下の覇権を争った柴田勝家が本陣として大改修・構築した。南北約250メートル、東西約150メートルの規模を持ち、中央の本丸を最高所に配し、南北に馬出、二の丸、三の丸、搦手郭を直線状かつ梯郭状に整然と配置している。各郭の周囲には高さ2〜3メートルの重厚な土塁が巡り、深さ4〜6メートルの空堀(大堀切・横堀)や虎口、土橋が完備されている。石垣を一切用いず土木技術のみで極めて精緻に設計された戦国期「土の城」の最高傑作として名高い。
歴史的役割
天正10年(1582年)の本能寺の変後、清洲会議を経て激化した柴田勝家と羽柴秀吉の武力衝突「賤ヶ岳の戦い(1583年)」において、勝家率いる越前・北陸軍団の最高指揮所(本陣)として機能した。北陸と近江を結ぶ北国街道および柳ヶ瀬越えを完全に制圧・監視する地政学的重要性を担った。勝家はこの堅城に拠って秀吉の美濃出兵を牽制したが、前線で大岩山砦を急襲・占領した先鋒・佐久間盛政が勝家の退却命令を無視して突出。秀吉の「美濃大返し」により包囲された盛政を救援すべく戦線が崩壊し、さらに友軍の前田利家らが戦線を離脱したことで柴田軍は総崩れとなった。勝家は本城から本拠の越前北ノ庄城へ退却を余儀なくされ、城内で自刃して敗北した。合戦後、後世の改変を一切受けることなく放棄されたため、戦国末期の陣城の遺構が築城当時のまま奇跡的に完存している。
見どころ
土木技術の粋を集め高さ2m超の土塁に囲まれた広大な柴田勝家の本陣「本丸跡(主郭)」、本丸と二の丸・馬出を峻険に分断する深さ約4〜6m・幅約8mの圧巻の「大空堀・堀切」群、侵入経路に厳重な防衛線を敷く「南北の馬出郭」および「直線土橋」遺構、敵に横矢を浴びせるため土塁線を屈折させた「横矢掛かり」と「枡形虎口」構造、山頂尾根の要害地形を最大限に活かした直線連郭の縄張美、後世の改変を免れ戦国当時の姿をほぼ完璧に留める奇跡的な土塁保存状態、本丸から賤ヶ岳・余呉湖方面や越前・近江国境の山並みを見渡す眺望、国指定史跡碑・案内板
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
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