概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | あり(元:追手門伝承、先:市内甚吉邸/市内寺院山門伝承等) |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・横堀あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。
概要
高天神城(たかてんじんじょう)は、静岡県掛川市上土方嶺向に所在する遠州平野南部の独立山塊・鶴翁山(標高約132メートル、比高約100メートル)に築かれた中世屈指の要塞山城跡である。「鶴舞城」とも称され、国の史跡、続日本100名城に選定。今川氏親の命により重臣・福島氏が築城したと伝わる。中央の「大掘切」を境界として、東峰に本丸・御前曲輪・的場曲輪・天神曲輪、西峰に西の丸・丹波曲輪・井楼曲輪を配する「一城別郭」の構造を持つ。山全体が軟弱な砂礫・シラス層と泥岩層からなり、風雨浸食による天然の断崖絶壁に囲まれ、尾根を切り落とした大堀切、横堀、切岸、土塁が全山に張り巡らされている。徳川・武田双方が領有時にそれぞれ改修を加えたため、東峰の徳川系縄張と西峰の武田系丸馬出状遺構が共存する戦国攻防史上極めて稀有な土木遺構を今日に伝えている。
歴史的役割
「高天神を制する者は遠州を制す」と謳われた東海地方の軍事的最重要拠点であり、武田信玄・勝頼父子と徳川家康が遠江の覇権を賭けて血で血を洗う激戦を繰り広げた。元亀3年(1572年)の信玄の猛攻には城主・小笠原氏助が耐え抜いたが、天正2年(1574年)の武田勝頼による包囲攻撃(第一次高天神城の戦い)で落城し武田領となった。その後、天正6年以降に徳川家康は本城奪還のため横須賀城をはじめ「高天神六砦」を築いて包囲網を構築。天正8年から開始された第二次高天神城の戦いでは城兵千余が兵糧攻めに苦しみ、天正9年(1581年)に城将・岡部元信以下が討死して落城・奪還された。勝頼が救援を出せなかったことは武田家衰退と滅亡の決定打となった。落城後、家康によって完全に破却・廃城とされ、以後放置されたため戦国期の生々しい遺構が完存することとなった。
見どころ
東峰と西峰を豪快に二分する深さ十数メートル・幅十数メートルの圧巻の巨構「大堀切」、武田方が増改築した技巧的な防衛施設「西の丸跡」および馬出状遺構、徳川方が死守した城中枢の「東峰本丸跡」および「御前曲輪」、岩盤を穿って湧水路を確保した貴重な籠城用水「かな井戸」遺構、追手門・搦手門双方から続く峻険な尾根道と鋭利な「切岸」群、徳川家康が城を完全包囲・兵糧攻めにするために築いた「高天神六砦(火ヶ峰砦・獅子ヶ鼻砦等)」との関連史跡群、山頂天神曲輪に鎮座する高天神社、山頂から遠州灘・駿河湾・富士山・掛川平野を見晴らす360度の大パノラマ、国指定史跡碑・案内板