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100名城・続100名城 -
別称 高里城山、川尻要害、川尻城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 あり
標高 572.4m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別城郭
縄張平山城
曲輪配置連郭式・梯郭式複合
築城者奥平貞俊
築城年応永31年(1424年)3月
廃城年天正年間(1573〜1590年頃)
主な城主奥平氏
指定文化財指定なし

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門あり(公園入口冠木門設置)
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:572.4m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

川尻城(かわじりじょう)は、愛知県新城市作手高里字城山に所在する作手盆地北端の独立低丘陵・城山(標高約570メートル、比高約40メートル)頂部に築かれた奥三河国衆・作手奥平氏発祥の平山城跡である。応永31年(1424年)3月、上野国から三河作手へ移住した奥平貞俊が奥平氏の最初の本拠として築城した。山頂の主郭(本丸)を中心に帯曲輪や腰曲輪を階段状に配し、南西側の尾根筋を堀切や竪堀、切岸で遮断した中世山野城郭の縄張を持つ。貞俊は築城後まもなく南方の亀山城へ居城を移したが、川尻城は作手盆地北方の抑えおよび詰城・支城として維持された。現在は「創造の森城山公園」として遊歩道や模擬冠木門が整備され、本丸跡の削平地や土塁、堀切、竪堀、古井戸跡が明瞭に残る。春には水芭蕉やミツバツツジ、冬にはマンサクの花が咲く自然豊かな史跡公園となっている。

⚔️ 歴史的役割

近世譜代大名・中津藩奥平家10万石の礎となった三河奥平氏が最初に旗揚げした歴史的発祥の地である。南北朝期に新田義貞に従った上野国甘楽郡奥平郷の奥平一族は、足利方に追われて関東を出奔。天授年間に奥平貞俊・定家父子が妻の縁者である作手郷の武士を頼り、鴨ヶ谷の甘泉寺に寓居した。成長した嫡男・貞久とともに奥平家の再興を期した老将・貞俊が75歳の時に築いたのが本城であり、「奥平の家をここから興すのじゃ」と誓ったと伝わる。築城から約8ヶ月後に本拠を亀山城へ遷した後は北の防衛拠点として機能し、戦国期の武田・今川・徳川の三つ巴の抗争下でも作手防衛網の一翼を担った。天正元年(1573年)の奥平氏の武田離反と徳川帰属、天正3年の長篠・設楽原の戦いを経て奥平家が飛躍する原点となった城郭として高い史料的価値を有する。

👀 見どころ

城山山頂に広がり作手盆地を一望する広大な「本丸跡(主郭平坦地)」および周囲を取り巻く段状の「腰曲輪群」、尾根筋からの敵の侵入を鋭利に断ち切る「堀切」および斜面に掘削された「竪堀」・「切岸」遺構、主郭背面に残る防壁用の「土塁」および生活用水を確保した「古井戸跡」、山頂本丸から古宮城跡・亀山城跡・文殊山城跡・塞之神城跡など作手盆地に展開する国衆城郭網を見渡す眺望、創造の森城山公園入口に整備された木造の「川尻城冠木門(公園門)」、早春のマンサクや水芭蕉・ミツバツツジが自生する湿生花園景観、作手中学校東側の登城口に設置された城址碑・解説案内板

🍲 ご当地グルメ


おいど攻城記録


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🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

JR飯田線新城駅から新城市Sバス作手線(作手高里行等)で約45分「作手中学校」下車、東へ徒歩約5分、本丸まで遊歩道を徒歩約5分(新城市作手高里字城山・創造の森城山公園一帯、本丸標高約570m、巴川平地比高約40m)

車でのアクセス

新東名高速道路 新城ICから国道151号・国道301号経由で北西へ車で約40分、または東名高速道路 豊田松平ICから国道301号経由で約40分

駐車場

有(創造の森城山公園南側駐車場、無料約20台)

📍 周辺地図

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