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100名城・続100名城 -
別称 烏帽子形要害、烏帽子形城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 181.3m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別城郭
縄張山城
曲輪配置連郭式・梯郭式複合
築城者楠木正成
築城年建武年間(1334〜1338年頃楠木氏、天正期キリシタン池田氏・豊臣氏改修)
廃城年元和3年(1617年)大坂夏の陣後に破却・廃城
主な城主楠木氏、畠山氏、三好氏、池田氏、織田氏、豊臣氏
指定文化財国指定史跡

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・横堀あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:181.3m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

烏帽子形城(えぼしがたじょう)は、大阪府河内長野市喜多町に所在する石川西岸に聳える標高約182メートル(比高約80メートル)の烏帽子形山に築かれた中世山城跡である。国の史跡(国史跡「楠木城跡」の構成要件)。南北朝期に楠木正成が河内防衛の外郭支城(楠木七城の一つ)として築いたことに始まると伝わる。山頂の主郭(本丸)を中心に東西の痩せ尾根上に二の丸、腰曲輪群を展開。高野街道を眼下に抑える要衝に位置し、天正年間にはキリシタン領主・池田丹後守教正や織豊政権により大規模改修が行われた。主郭周囲を巡る重厚な土塁、横堀状の空堀、鋭利な堀切、畝状竪堀群、石垣石積み、切岸、井戸跡が極めて良好に遺存する。近年の発掘調査では瓦葺建物跡やキリシタン関連遺物、鉄砲玉が出土し、中世から織豊期への変遷を示す第一級の城郭遺構として知られる。

⚔️ 歴史的役割

南河内から紀伊・和泉を結ぶ交通の十字路「高野街道・巡礼街道」を扼する軍事中枢であり、南北朝期から戦国・安土桃山期、大坂の陣に至るまで畿内覇権争奪の激戦地となった。南北朝期には南朝方の楠木氏と北朝軍が争奪。戦国期には畠山氏や三好氏、織田信長配下の軍勢が次々に拠点を置いた。天正期には信長・秀吉に仕えたキリシタン武将・池田教正が城主となり、城下に教会堂(天主堂)が造営されるなど南蛮文化の拠点ともなった。豊臣政権下では大坂城防衛の南の関門・支城として石垣や堀を増強。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川方の前進兵站基地として利用されたが、大坂夏の陣での豊臣氏滅亡後、元和3年(1617年)に幕命により徹底破却され廃城となった。中世楠木流山城から織豊系拠点城郭へと発展を遂げた南河内屈指の記念碑的要塞である。

👀 見どころ

主郭背後および尾根筋を鋭利に遮断する深大な「大堀切」および斜面に掘削された「畝状竪堀群」・「横堀」遺構、主郭(本丸)の周囲を取り巻く重厚な「土塁」および山腹を削り落とした威圧的な「切岸」、発掘調査で検出された織豊期改修を示す「石垣(石積み)」痕跡および籠城用「古井戸跡」、山頂主郭から眼下に広がる高野街道・石川流域の河内長野市街・葛城金剛連山を一望するパノラマ眺望、城山中腹に鎮座し本殿が国の重要文化財に指定されている「烏帽子形八幡神社」、登城路に整備された国史跡標柱・詳細な縄張図付き解説案内板

🍲 ご当地グルメ


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🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

南海高野線および近鉄長野線河内長野駅西口から南へ徒歩約15〜20分、または南海バス(天野山・高野山方面行等)で約5分「烏帽子形下」下車徒歩約5分、烏帽子形八幡神社経由で山頂本丸まで徒歩登山約5〜8分(河内長野市喜多町字城山・石川西岸烏帽子形山頂一帯、主郭標高約182m、石川平地比高約80m)

車でのアクセス

阪和自動車道 美原北ICまたは美原南ICから国道309号・国道170号(外環状線)経由で南へ車で約25分、または西名阪自動車道 藤井寺ICから約30分

駐車場

有(烏帽子形八幡神社参拝者駐車場・烏帽子形公園駐車場、普通車無料約15台)

📍 周辺地図

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