概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・横堀あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
烏帽子形城(えぼしがたじょう)は、大阪府河内長野市喜多町に所在する石川西岸に聳える標高約182メートル(比高約80メートル)の烏帽子形山に築かれた中世山城跡である。国の史跡(国史跡「楠木城跡」の構成要件)。南北朝期に楠木正成が河内防衛の外郭支城(楠木七城の一つ)として築いたことに始まると伝わる。山頂の主郭(本丸)を中心に東西の痩せ尾根上に二の丸、腰曲輪群を展開。高野街道を眼下に抑える要衝に位置し、天正年間にはキリシタン領主・池田丹後守教正や織豊政権により大規模改修が行われた。主郭周囲を巡る重厚な土塁、横堀状の空堀、鋭利な堀切、畝状竪堀群、石垣石積み、切岸、井戸跡が極めて良好に遺存する。近年の発掘調査では瓦葺建物跡やキリシタン関連遺物、鉄砲玉が出土し、中世から織豊期への変遷を示す第一級の城郭遺構として知られる。
歴史的役割
南河内から紀伊・和泉を結ぶ交通の十字路「高野街道・巡礼街道」を扼する軍事中枢であり、南北朝期から戦国・安土桃山期、大坂の陣に至るまで畿内覇権争奪の激戦地となった。南北朝期には南朝方の楠木氏と北朝軍が争奪。戦国期には畠山氏や三好氏、織田信長配下の軍勢が次々に拠点を置いた。天正期には信長・秀吉に仕えたキリシタン武将・池田教正が城主となり、城下に教会堂(天主堂)が造営されるなど南蛮文化の拠点ともなった。豊臣政権下では大坂城防衛の南の関門・支城として石垣や堀を増強。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川方の前進兵站基地として利用されたが、大坂夏の陣での豊臣氏滅亡後、元和3年(1617年)に幕命により徹底破却され廃城となった。中世楠木流山城から織豊系拠点城郭へと発展を遂げた南河内屈指の記念碑的要塞である。
見どころ
主郭背後および尾根筋を鋭利に遮断する深大な「大堀切」および斜面に掘削された「畝状竪堀群」・「横堀」遺構、主郭(本丸)の周囲を取り巻く重厚な「土塁」および山腹を削り落とした威圧的な「切岸」、発掘調査で検出された織豊期改修を示す「石垣(石積み)」痕跡および籠城用「古井戸跡」、山頂主郭から眼下に広がる高野街道・石川流域の河内長野市街・葛城金剛連山を一望するパノラマ眺望、城山中腹に鎮座し本殿が国の重要文化財に指定されている「烏帽子形八幡神社」、登城路に整備された国史跡標柱・詳細な縄張図付き解説案内板