概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
八上城(やかみじょう)は、兵庫県丹波篠山市殿町・八上上町に所在する篠山盆地東部にそびえる「丹波富士」こと標高約462メートル(比高約240メートル)の高城山山頂部に築かれた中世屈指の山岳要塞跡である。国の史跡(「八上城跡」)。永正5年(1508年)頃に丹波波多野氏の波多野清秀が築城した奥谷城を前身とし、その後に高城山全山を要塞化して本拠とした。山頂の本丸(主郭)を中心に二の丸、三の丸、蔵屋敷、池ノ段、右衛門丸を階段状・尾根筋に連郭配置。周囲の痩せ尾根には深大な大堀切、斜面に穿たれた無数の竪堀群、主郭縁辺部を取り巻く土塁、切岸、織豊期に前田茂勝によって積まれたとみられる野面積み石垣(石積み)遺構が明瞭に残る。織田信長配下の明智光秀による丹波攻めにおいて、波多野秀治が約1年半にわたる徹底抗戦を繰り広げた「八上城の戦い」の舞台として名高い。
歴史的役割
丹波国と摂津・京都を結ぶ街道(山陰道脇往還・篠山街道)を扼する軍事・政治の最重要結節点であり、織田政権による畿内平定の帰勢を左右した歴史的激戦地である。波多野氏は三好長慶や松永久秀の侵攻を幾度も撃退して丹波の覇権を確立。天正3年(1575年)より開始された織田信長の命による明智光秀の丹波平定戦に対し、城主・波多野秀治は当初恭順するも天正4年に突如離反して光秀軍を撃退。激怒した光秀は天正6年(1578年)より周囲に陣城群(金峰山陣城・法光寺陣城など)を築いて八上城を完全包囲した。秀治は約1年半の猛烈な兵糧攻めに耐え抜いたが、天正7年(1579年)6月に城兵の飢餓によりついに落城。秀治らは安土へ送られ処刑された。その後、前田玄茂の子・茂勝が領主となり改修したが、慶長14年(1609年)に徳川家康の命により近世平山城「篠山城」が築城されると廃城となった。
見どころ
高城山山頂に削平された広大な「本丸跡(主郭)」および尾根筋に連なる「二の丸・三の丸・蔵屋敷・池ノ段」の重厚な連郭式曲輪群、本丸・二の丸の縁辺部や虎口に遺存する武骨な「野面積み石垣(石積み)」遺構、尾根筋からの敵進攻を立体的に断ち切る深大な「大堀切」および斜面に掘削された「竪堀」・「空堀」痕跡、山腹を削り落とした威圧的な「切岸」および主郭「土塁」、本丸跡に建立された「波多野秀治公顕彰碑」および国指定史跡標柱、山頂から見晴らす篠山盆地・篠山城跡・遠く丹波丹南の山々を望む360度大パノラマ絶景、山麓に点在する明智光秀の包囲陣城遺構群との位置関係