概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
後瀬山城(のちせやまじょう)は、福井県小浜市伏原に所在する小浜湾南西岸に聳える標高約251メートル(比高約245メートル)の後瀬山山頂部に築かれた山城・守護館跡である。国の史跡。大永2年(1522年)、若狭守護・武田元光が甲ヶ崎城から本拠を移して築城した。山麓に守護館(居館)を構え、山上に詰城を配した典型的な中世山城の形態を持つ。最高所の本丸(主郭・現愛宕神社)を中心に東西および南西の尾根上に連郭・階段状に多数の曲輪群を展開。尾根筋を遮断する深大な堀切、連続竪堀群、主郭縁辺部の土塁、切岸、井戸跡が明瞭に残る。織田信長による平定後は丹羽長秀や浅野長政、木下利房ら豊臣系大名が城主となり、本丸周囲に織豊系城郭の特徴である野面積み石垣(石積み)が大規模に導入された。中世守護大名から織豊系近世大名への移行過程を克明に示す重要遺跡である。
歴史的役割
中世若狭国の政治・軍事・文化の中心地であり、日本海海運と京都を結ぶ鯖街道(若狭街道)の起点を掌握する最重要拠点として機能した。武田元光・義統ら若狭武田氏累代が拠点とし、京都の公家や文化人を招聘して小浜に高度な都の文化(若狭文化)を花開かせた。戦国末期に武田氏の内紛に乗じて越前朝倉氏が介入したが、元亀元年(1570年)に織田信長が越前侵攻の足頭として当城を接収。武田氏滅亡後は信長重臣の丹羽長秀、豊臣期には浅野長政や木下利房(高台院の甥)が入城し、若狭支配の城郭として石垣改修を推進した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、功により若狭一国を与えられた京極高次が入封。高次は山城である当城の不便さから北西海岸部に新たな近世平城「小浜城」の築城を開始し、慶長6年に本拠を移したことで廃城となった。
見どころ
山頂に削平された広大な「本丸跡(主郭・愛宕神社境内)」および尾根筋に段状に広がる重厚な連郭式曲輪群、本丸南西面や虎口周辺に遺存する織豊期改修を示す見事な「野面積み石垣(石積み)」遺構、尾根続きからの進攻を鋭利に遮断する深大な「堀切」および斜面に掘削された「竪堀群」・「空堀」、主郭縁辺部を巡る「土塁」および山腹を削り落とした威圧的な「切岸」、長期籠城を支えた山上要害の「古井戸跡」、山頂展望広場から眼下に広がる風光明媚な小浜湾・小浜市街地・南川と北川の合流点・遠く若狭富士(青葉山)の絶景大パノラマ、山麓に位置する「武田氏館跡」および国指定史跡標柱・詳細な縄張解説案内板
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
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