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石見 浜田城

100名城・続100名城 170番
別称 亀山城、鴨山城、浜田要害、浜田城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 あり
標高 67.1m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別城郭
縄張平山水城
曲輪配置梯郭式・連郭式複合
築城者古田重治
築城年元和6年(1620年)
廃城年慶応2年(1866年)
主な城主古田氏、松平氏(松井)、本多氏、松平氏(越前)
指定文化財都道府県指定史跡

🏯 基本情報

天守平面構造独立式 天守形式層塔型
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門あり(旧津和野藩辻番所城門移築再建)
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門あり(元:御用屋敷門、先:市内個人宅/旧津和野藩武家屋敷辻番所門を城跡内に移築)
遺構 空堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:67.1m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

浜田城(はまだじょう)は、島根県浜田市殿町に所在する日本海と浜田川・松原湾に面した独立丘陵・亀山(標高約67メートル、比高約60メートル)に築かれた石見浜田藩6万石余の本拠たる近世平山水城跡である。「亀山城」とも称され、島根県指定史跡、続日本100名城(170番)に選定。元和5年(1619年)に伊勢松坂から転封となった古田重治が翌元和6年から築城を開始し、元和9年に完成させた。丘陵頂部の本丸を中心に二の丸、三の丸、出丸、腰曲輪を階段状に配する梯郭式縄張を持つ。天守は当初から建てられず、本丸の三重櫓が代用天守として機能した。西面と北面を日本海の断崖と松原湾の入江、東面を浜田川に囲まれた天然の海城要塞であり、本丸・二の丸には打込接ぎ・切込接ぎの雄大な高石垣群が極めて良好に現存する。城山の麓には藩政中枢の御殿が置かれ、現在は城山公園として市民に親しまれている。

⚔️ 歴史的役割

山陰石見地方の軍事・政治統治の中枢および日本海海運・外港(外ノ浦)を掌握する幕府の西国抑えの要塞として機能した。古田氏2代ののち、松平(松井)氏、本多氏、越前松平氏と親藩・譜代大名が歴代城主を務めた。江戸末期の天保7年(1836年)には、浜田藩密貿易事件(竹島事件)の舞台となり、幕府の命により奥州棚倉の越前松平氏と国替えとなった。慶応2年(1866年)の第二次長州征伐(石州口の戦い)では、大村益次郎率いる最新鋭アームストロング砲・ミニエー銃を装備した長州藩軍が侵攻。最新兵器の前に圧倒された藩主・松平武厚らは城防衛を断念し、自ら本丸・二の丸など城郭建築群に火を放って敗走・自焼落城した(浜田城自焼落城)。この戦乱により建造物は焼失したが、石垣群は火災を耐え抜いて完存し、幕末維新の激動と軍事転換点を伝える記念碑的城郭遺構である。

👀 見どころ

本丸・二の丸を取り巻く打込接ぎ・切込接ぎによる重厚な「本丸・二の丸高石垣群」、本丸入口に構えられた厳重な迎撃施設「夕日庵門跡」および「枡形虎口」遺構、城域の背後尾根を峻険に分断する「堀切(空堀)」および切岸、藩政期に外海交易・北前船風待ち湊として栄えた近隣の日本遺産「外ノ浦(浜田城外港)」、旧津和野藩武家屋敷から城跡登城口に移築現存する「辻番所門(城門)」、本丸展望台から見渡す日本海・外ノ浦・浜田港・浜田市街地の雄大なパノラマ、城山山麓に位置し藩主御座船模型や出土資料を展示し続日本100名城スタンプが置かれた「浜田城資料館」、島根県指定史跡碑・案内板

🍲 ご当地グルメ


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🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

JR山陰本線浜田駅南口から徒歩約20〜25分、または浜田駅から石見交通バス(市内線等)で約5分「殿町」下車徒歩約5〜8分(浜田市殿町・亀山山頂一帯、本丸標高約67m、平地比高約60m)

車でのアクセス

山陰自動車道 浜田ICから国道9号バイパス経由で北西へ車で約10分、または浜田東ICから約15分

駐車場

有(浜田城資料館駐車場・城山公園下駐車場、無料約30台)

📍 周辺地図

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