概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | 独立式 | 天守形式 | 層塔型 |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | あり(旧津和野藩辻番所城門移築再建) |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | あり(元:御用屋敷門、先:市内個人宅/旧津和野藩武家屋敷辻番所門を城跡内に移築) |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
浜田城(はまだじょう)は、島根県浜田市殿町に所在する日本海と浜田川・松原湾に面した独立丘陵・亀山(標高約67メートル、比高約60メートル)に築かれた石見浜田藩6万石余の本拠たる近世平山水城跡である。「亀山城」とも称され、島根県指定史跡、続日本100名城(170番)に選定。元和5年(1619年)に伊勢松坂から転封となった古田重治が翌元和6年から築城を開始し、元和9年に完成させた。丘陵頂部の本丸を中心に二の丸、三の丸、出丸、腰曲輪を階段状に配する梯郭式縄張を持つ。天守は当初から建てられず、本丸の三重櫓が代用天守として機能した。西面と北面を日本海の断崖と松原湾の入江、東面を浜田川に囲まれた天然の海城要塞であり、本丸・二の丸には打込接ぎ・切込接ぎの雄大な高石垣群が極めて良好に現存する。城山の麓には藩政中枢の御殿が置かれ、現在は城山公園として市民に親しまれている。
歴史的役割
山陰石見地方の軍事・政治統治の中枢および日本海海運・外港(外ノ浦)を掌握する幕府の西国抑えの要塞として機能した。古田氏2代ののち、松平(松井)氏、本多氏、越前松平氏と親藩・譜代大名が歴代城主を務めた。江戸末期の天保7年(1836年)には、浜田藩密貿易事件(竹島事件)の舞台となり、幕府の命により奥州棚倉の越前松平氏と国替えとなった。慶応2年(1866年)の第二次長州征伐(石州口の戦い)では、大村益次郎率いる最新鋭アームストロング砲・ミニエー銃を装備した長州藩軍が侵攻。最新兵器の前に圧倒された藩主・松平武厚らは城防衛を断念し、自ら本丸・二の丸など城郭建築群に火を放って敗走・自焼落城した(浜田城自焼落城)。この戦乱により建造物は焼失したが、石垣群は火災を耐え抜いて完存し、幕末維新の激動と軍事転換点を伝える記念碑的城郭遺構である。
見どころ
本丸・二の丸を取り巻く打込接ぎ・切込接ぎによる重厚な「本丸・二の丸高石垣群」、本丸入口に構えられた厳重な迎撃施設「夕日庵門跡」および「枡形虎口」遺構、城域の背後尾根を峻険に分断する「堀切(空堀)」および切岸、藩政期に外海交易・北前船風待ち湊として栄えた近隣の日本遺産「外ノ浦(浜田城外港)」、旧津和野藩武家屋敷から城跡登城口に移築現存する「辻番所門(城門)」、本丸展望台から見渡す日本海・外ノ浦・浜田港・浜田市街地の雄大なパノラマ、城山山麓に位置し藩主御座船模型や出土資料を展示し続日本100名城スタンプが置かれた「浜田城資料館」、島根県指定史跡碑・案内板