概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | あり(西門木造復元) |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | あり(築地塀復元) |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 水堀あり・石垣あり・土塁あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
大内氏館(おおうちしやかた)は、山口県山口市大殿大路に所在する一の坂川東岸の平野低地(標高約40メートル)に築かれた中世西国屈指の大大名・大内氏歴代の本拠たる居館跡である。国の史跡(大内氏遺跡附凌雲寺跡のうち大内氏館跡)、続日本100名城(174番・高嶺城と連名)に選定。南北朝期に周防・長門を統一した大内弘世が本拠を大内村から山口に移転して造営した。東西・南北とも約160メートルの方形単郭の主郭部を、幅約10〜14メートルの水堀と重厚な土塁(築地塀)で囲む環濠居館の縄張を持つ。発掘調査では主殿や会所、持仏堂、枯山水庭園跡(池泉鑑賞式庭園)、鍛冶工房、石組暗渠排水路、井戸跡が良好に検出され、中国(明代)産青磁・白磁や朝鮮陶磁、漆器、儀礼用具が大量に出土した。背後の高嶺城を詰城とし、京都を模した「西の京」山口の都市計画中枢として機能した。現在は跡地に大内義隆の菩提寺である龍福寺が建つ。
歴史的役割
周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を兼ねて「西国の覇者」として君臨した大内氏6代約200年間の政治・軍事・文化・外交の中枢として機能した。応仁の乱の西軍総大将・大内政弘や義興、義隆の治世には、京都から公家や文人、禅僧、連歌師、さらに画聖・雪舟やキリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルらを温かく迎え入れ、華麗な「大内文化」が花開いた。日明貿易(勘合貿易)や朝鮮・琉球貿易を独占的に掌握し、国際色豊かな経済的繁栄を誇ったが、天文20年(1551年)に重臣・陶晴賢の謀反(大寧寺の変)により当主・大内義隆が自刃。傀儡として擁立された大内義長も弘治3年(1557年)に毛利元就の防長経略により自刃に追い込まれ、大内氏は滅亡した。その後、毛利隆元が義隆の菩提を弔うため館跡に龍福寺を建立した。中世武家居館の構造と国際交易都市の繁栄を今に留める第一級の遺跡である。
見どころ
大内氏館の主郭西側に発掘調査成果に基づき木造復元された「西門(薬医門形式)」および「築地塀(土塁・塀復元)」、館の西辺・南辺を囲み発掘整備された幅広の「外堀(水堀)」遺構、大内氏の迎賓空間であった会所・主殿跡や豪壮な石組を留める「枯山水庭園跡(池泉庭園)」、館跡中心部に建ち大内義隆の菩提を弔う曹洞宗名刹「瑞雲山龍福寺(国指定重要文化財本堂)」、龍福寺境内に残る大内義隆公供養塔、館の詰城として背後山頂に築かれた続日本100名城「高嶺城跡」との一体的城郭景観、隣接する龍福寺資料館に展示された出土明代陶磁器・輸入遺物(続日本100名城スタンプ設置)、国指定史跡碑・案内板