概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
高嶺城(こうのみねじょう)は、山口県山口市上宇野令に所在する山口盆地北方にそびえる秀峰・鴻ノ峰(標高約338メートル、比高約280メートル)山頂部に築かれた中世山城跡である。史跡指定名称は「大内氏遺跡附凌雲寺跡」に包括され、国の史跡、続日本100名城(174番・大内氏館と連名)に選定。大内氏最後の当主・大内義長が毛利元就の防長経略に対抗するため弘治2年に築城を開始し、大内氏滅亡後に周防を領有した毛利元就・隆元が大規模な拡張・石垣修築を行い完成させた。山頂の本丸を中心に二の丸、三の丸、出丸などの曲輪群を階段状・連郭状に配する。主郭を取り巻く荒々しい野面積み高石垣群や虎口、尾根筋を遮断する深大な堀切、切岸、大井戸が極めて良好に遺存する。平時の居館である山麓の大内氏館(龍福寺)に対する「詰城」として機能し、戦国期における居館と詰城が一体となった中世防長城郭の最高峰である。
歴史的役割
戦国大名大内氏の滅亡劇および毛利氏による防長領国統治の要塞として激動の歴史を刻んだ。厳島の戦いで陶晴賢を破った毛利元就が周防へ侵攻すると、内憂外患に苦しむ大内義長は防衛拠点として高嶺城の普請を急いだ。しかし完成を見ぬまま城を放棄して長門へ敗走し、義長は自刃して大内氏正統は滅亡した。城を接収した毛利元就は山口支配の最前線拠点と位置づけ、本格的な総石垣山城として改修を断行。城代には重臣・市川経好を据えた。永禄12年(1569年)、大友宗麟の支援を受けた大内輝弘が周防に侵入し山口を占拠する「大内輝弘の乱」が勃発。城代経好が九州出兵で不在の中、経好の妻・市川局(市川経好室)が城内のわずかな兵や侍女を指揮して籠城し、大友・大内軍の猛攻を退けて落城を防ぐ武功を挙げた。江戸期初頭の一国一城令前後まで毛利氏の要衝として維持された。
見どころ
毛利元就・隆元が改修した戦国期の荒々しく重厚な「主郭(本丸)野面積み石垣群」および天守台状石垣、主郭を取り巻く帯曲輪・段状曲輪群と急峻な「切岸」遺構、山頂尾根筋を鋭利かつ深大に遮断する「堀切」群、長期間の籠城を支えた山頂稜線下の貴重な「大井戸」跡、市川局が指揮を執り大内輝弘軍の侵攻を頑強に撃退した「二の丸・三の丸」攻防の舞台、山頂主郭から「西の京」山口市街・大内氏館跡・瑠璃光寺五重塔・遠く瀬戸内海まで見晴らす360度の大パノラマ、山麓の大内氏館跡(龍福寺資料館)に設置された続日本100名城スタンプ、国指定史跡碑・案内板