概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | あり(西第十郭木橋・門柱復元) |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | あり(西第十郭土塀復元) |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。
概要
河後森城(かごもりじょう)は、愛媛県北宇和郡松野町大字松丸に所在する四万十川支流・広見川と堀切川に挟まれた独立山塊・城山(標高約171メートル、比高約90メートル)山頂部に築かれた南予屈指の巨大連郭式山城跡である。国の史跡、続日本100名城(179番)に選定。室町期に南予の領主・渡辺教忠が築城したと伝わる。馬蹄形に湾曲した主尾根沿いに本郭を中心に新城、西第十郭、古城など大小数十の平坦曲輪が放射状に連なる。大規模な発掘調査により、西第十郭から掘立柱建物跡、礎石建物跡、鍛冶遺構、さらに跳ね橋状の木橋を伴う堀切や土塀・門跡が検出され、出土成果に基づき忠実に木橋や門、土塀、草葺き建物が復元整備された。中世土豪の山城から織豊期大名による先進的要塞へと発展した過程を極めて良好に留める城郭考古学の標本遺跡である。
歴史的役割
伊予国南部と土佐国を結ぶ交通・軍事の要衝(予土国境の咽喉部)に位置し、戦国期には土佐一条氏や長宗我部氏の侵攻に対する西園寺十四騎・渡辺氏の防衛中枢として機能した。天正年間に長宗我部元親が南予へ侵攻した際にも激戦の舞台となった。豊臣政権による四国平定後は小早川隆景、戸田勝隆の支配を経て、慶長元年(1595年)に宇和島に入封した築城の名手・藤堂高虎の所領となった。高虎は本城を予土国境監視の重要支城として位置づけ、家臣の渡辺掃部を城代に据えて大規模な改修を実施。近世初頭の石垣普請や瓦葺き礎石建物の整備を行った。関ヶ原合戦後は富田知信、さらに慶長19年(1614年)に伊達政宗の長男・伊達秀宗が宇和島藩に入部したが、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となった。中世の土木遺構と織豊期の改修痕跡が損なわれずに併存する。
見どころ
発掘調査成果に基づいて忠実に現地木造復元された西第十郭の「木橋(堀切に架かる跳ね橋構造)」「門」および「復元土塀」、曲輪周囲の急崖を人工的に切り落とした豪壮な「切岸」群や尾根筋を鋭利に遮断する「堀切」遺構、本郭および新城・古城などの尾根筋を巡る連郭・群郭遺構、藤堂高虎期等の改修を示す各曲輪の「石垣・石積」跡、籠城時の水源を支えた山中の「井戸跡」、山頂本郭から見渡す広見川の流れ・松丸の城下集落・予土国境の山並みを望む360度の大パノラマ、山麓の松野町ふれあい交流館に展示された出土遺物(貿易陶磁器・瓦等)と続日本100名城スタンプ、国指定史跡碑・案内板