概要
山口城は、幕末の文久3年(1863年)に長州藩13代藩主・毛利敬親が萩城から藩庁を移すために築城した城郭である。山口政事堂や山口屋形とも呼ばれる。外国艦隊の脅威や有事に備え、瀬戸内海側への交通網や指揮の便を考慮して内陸の山口盆地に移鎮された。天守を持たない居館(屋形)であったが、周囲には水堀や腰巻石垣を巡らせ、八角形の稜堡式城郭の特徴を備えていた。広義の城郭としては毛利氏最後の城である。
山口県の中央部、四方を山に囲まれた山口盆地の北西端に位置する。大内氏時代に築かれた高嶺城のある一の坂川西岸の一露山麓(現在の山口県庁敷地)に築かれた。萩からの移鎮にあたり、外国船の艦砲射撃が届かない内陸部でありながら、瀬戸内海側の三田尻(防府)へ通じる街道が整備されている交通の要衝であることが重視された。背後の高嶺城を詰城として機能させるなど、防衛と政務の両面を兼ね備えた地勢であった。
萩から山口への藩庁移転(山口移鎮)により、幕末期の長州藩における政治・軍事の新たな中枢となった。第一次長州征討の際には幕府への恭順の証として一部が破却され一時的に萩へ戻ったが、翌慶応元年(1865年)に再び機能を取り戻した。第二次長州征討や倒幕運動において、諸隊の指揮や藩政の重要拠点の役割を担った。明治維新を推し進めた長州藩の原動力として、幕末の激動期に極めて重要な歴史的舞台となった。
明治3年(1870年)に山口政事堂から藩庁と改称され、明治4年(1871年)の廃藩置県後はそのまま山口県庁として利用された。明治6年(1873年)の廃城令により存城処分(後に廃城)となった。大正時代に新たな県庁舎(現在の山口県政資料館)が建設され、当時の遺構の多くは失われた。現在は山口県庁の敷地となっており、昭和62年(1987年)に県指定有形文化財に指定された旧藩庁門(薬医門)や一部の水堀が現存する。
西洋兵学の影響を受けた幕末期の築城技術を示す貴重な遺構である。天守を設けず御殿を中心とする政務・居住空間でありながら、現存する絵図からは大砲を備えた稜堡式の要素(八角形の縄張)が確認されている。近世城郭から近代要塞へと移行する過渡期の姿を留めており、現在も県庁正門付近に残る水堀や腰巻型の石垣、そして堂々たる旧藩庁門から、長州藩が総力を挙げて築き上げた軍事拠点兼政庁の様子を窺うことができる。
城郭詳細データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | ヤマグチジョウ |
| 別名 | 山口政事堂・山口政庁・山口屋形 |
| 所在地 | 山口県山口市滝町 |
| 100名城スタンプ | 第-番 - |
| 城郭構造 | 稜堡式平城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城者 | 毛利敬親 |
| 主な城主 | 毛利氏 |
| 築城年 | 1863年 |
| 廃城年 | 1873年 |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | あり |
| 再建建造物 | なし |
| 指定文化財 | 県指定 |
| 遺構 | 旧山口藩庁門・旧山口藩庁脇門・水堀・土塁・石垣・砲台跡 |
| 現状 | 山口県庁 |
| 駐車場 | 駐車場あり・無料(山口県庁駐車場を利用) |
| 最寄り駅 | JR山口線「山口駅」 |

城犬のおいど 攻城記録
駐車場

水堀


山口藩庁門
萩藩(長州藩、後の山口藩)は、文久3年(1863)の攘夷決行に際し、政治拠点を萩から山口に移し、この地に近代城郭山口城を建設しました。この山口城の門は、元治元年(1864)の第一次長州出兵の和議によって破却されており、

現存する門と土塀は、明治3年(1870)に改めて建設されたものです。門は大振りの木材が使用された重厚な仕上がりの薬医門ですが、加工が荒い部分も見られます。土塀は木造の漆喰塗りで、瓦の文様も巴紋と毛利の家紋である一文字三星を省略した一丸紋が混じっています。元治元年に建設された土塁と石垣は、山口城の縄張りを示すものであり、石材には切石ではなく、比較的短時間で加工できる割石が用いられています。

石材には切石ではなく、比較的短時間で加工できる割石が用いられています。これらの建造物群は、幕末期に山口が萩藩の政治の中心となったことを示すものであり、本県の成り立ちを考えるうえでも貴重な文化財です。
※現地案内板より

飾瓦

山口城跡
文久3年(1863)、藩主毛利敬親は幕末の有事に備え、藩庁を萩から山口に移し、元治元年(1864)、山口御屋形(山口城)が竣工しました。ここは山に囲まれた天然の要塞で、砲台や土塁、水濠を備えた近代的な西洋式城郭でした。正門であった藩庁門、堀、土塁が残されています。
※現地案内板より

山口御屋形跡
長州藩は、文久2年(1862)、藩論が破約攘夷に転換すると、攘夷に備えて城地を内陸部に移すこととし、新城地選定の作業に入った。 沿海の地では直接異国艦船からの脅威にさらされ、防御戦闘に耐えられないとの理由であった。沿海の地を避けて藩内に移鎮の地を求めるとき、地域経済の発達状況や交通の利便性だけでなく、

かつて大内氏によるまちづくりが行われた藩央の地山口は、長州藩の政治的・軍事的拠点となる適地であった。その山口移鎮は、文久3年(1863)4月16日に実行された。 一方、城地の最終選定作業は難航し、一致した結論を得ないまま、5月10日からの攘夷戦闘に突入した。結果は報復を受けて惨敗であった。海軍艦船を失った長州藩では、防備を陸上に移し、山口周辺に関門(関所)・砲台場などを急造し、防備の強化をはかった。城地が山口県庁の現在地で決着したのは7月18日であったと推定される。

これら一連の防備構築を中心になって推進したのが、周布政之助や兼重慎一であった。山口御屋形(山口城)はその後大村益次郎らの意見も入れ、元治元年(1864)正月の地開き、 5月の斧始めの儀を経て、10月16日、洋式の稜堡式城郭として完成するが、直後の第一次長州出兵の結果、破却された。再建は慶応元年(1865)4月に始まり、翌年5月藩主初入城、その後第二次長州出兵(四境戦争)や戊辰戦争をはさんで、明治のはじめに及んでいる。
※現地解説版より

山口県政資料館

旧県会議事堂






東稜堡の砲台跡
東稜堡は、萩往還方面への備えとともに、東門や中央稜堡の前面を抑える砲台で、3門の砲が置かれていたようである。

山口育児院旧院舎跡

山口城(山口藩庁)の土塁跡
現在の山口県庁のほぼ全域は、幕末に建てられた山口城跡の範囲に当たります。山口県(文化振興課)は、この解説版周辺の36㎡において、旧知事公舎跡地石積擁壁工事に伴い、令和5年7月18日から8月7日に発掘調査を行いました。

これまで山口城跡(山口藩庁跡)における発掘調査の履歴はなく、この調査が初の考古学的な調査となりました。調査の結果、幕末の絵図(山口御屋形差図)に描かれた土塁の一部が地下に埋没していたことがわかりました。また、土塁の構築工程や構造の特徴について知ることができました。
※現地解説版より

東稜堡の基礎石垣
1mを超える大石もあるこれらの石は、大内氏の築山館城(上竪小路)にあったものを転用したと伝えられる。

洞春寺山門
洞春寺は戦国時代に中国地方の大半を治めた毛利元就の菩提寺です。安芸国の吉田郡山城内に創建され、明治の初年に萩から当地へ移りました。この地には応永年間の初め(1400年頃)に大内盛見が建立した国清寺があり、山門はその遺構といわれています。門の様式は四脚門であり、奈良時代から建造され始めた格式の高い門です。

構造手法は雄大で、特に太い円柱や彫刻のない大きな板蟇股、反りの大きい垂木などが当時の特徴を表しています。解体修理の際に、桟瓦葺きの屋根は檜皮葺きに復元されました。なお、洞春寺には国指定重要文化財の洞春寺観音堂をはじめ、数多くの文化財があります。
※現地解説版より


2026/8 最終訪問
城郭周辺地図
駐車場
