概要
| 種別 | 近世城郭 | 縄張 | 稜堡式平城 |
|---|---|---|---|
| 城主 | 毛利氏 | 天守 | なし |
| 主な遺構 | 近世城郭 | 現状 | 山口県庁等 |
周辺の地図
山口県山口市滝町
🚶 城跡を歩く
周防国 山口城 [ Ymaguchi Castle]の写真や現地の探訪記録。

概要
山口城(山口政庁)は文久3年(1863年)、長州藩第13代藩主・毛利敬親が藩庁を萩から山口へ移転するために築いた近世城郭である。敷地は現在の山口県庁一帯に位置し、背後の鴻ノ峰山麓に抱かれた平地に広大な政庁空間を構築した。幕府には「屋形の新築」と偽って届出を行いながら、実際には強固な腰巻石垣、水堀、土塁、虎口を備えた本格的な平城形態をとっていた。明治4年(1871年)の廃藩置県で廃城となり、多くの建造物は解体されたが、現在も県庁正門付近から東側にかけて堀と石垣が明瞭に残り、往時の藩政中枢の偉容を伝えている。
歴史的役割
ご当地グルメ
アクセス・探訪情報
- 🚗 駐車場: 有(山口県庁外来駐車場、無料約200台)
- 🛣️ 車でのアクセス: 中国自動車道 小郡ICから国道9号経由で車で約20分
- 🚃 最寄り駅 / バス: JR山口線山口駅から防長バス県庁前方面行きで約6分「県庁前」下車徒歩すぐ
- ⏱️ 見学所要時間: 60分
おいど攻城記録
駐車場

水堀


山口藩庁門
萩藩(長州藩、後の山口藩)は、文久3年(1863)の攘夷決行に際し、政治拠点を萩から山口に移し、この地に近代城郭山口城を建設しました。この山口城の門は、元治元年(1864)の第一次長州出兵の和議によって破却されており、

現存する門と土塀は、明治3年(1870)に改めて建設されたものです。門は大振りの木材が使用された重厚な仕上がりの薬医門ですが、加工が荒い部分も見られます。土塀は木造の漆喰塗りで、瓦の文様も巴紋と毛利の家紋である一文字三星を省略した一丸紋が混じっています。元治元年に建設された土塁と石垣は、山口城の縄張りを示すものであり、石材には切石ではなく、比較的短時間で加工できる割石が用いられています。

石材には切石ではなく、比較的短時間で加工できる割石が用いられています。これらの建造物群は、幕末期に山口が萩藩の政治の中心となったことを示すものであり、本県の成り立ちを考えるうえでも貴重な文化財です。
※現地案内板より

飾瓦

山口城跡
文久3年(1863)、藩主毛利敬親は幕末の有事に備え、藩庁を萩から山口に移し、元治元年(1864)、山口御屋形(山口城)が竣工しました。ここは山に囲まれた天然の要塞で、砲台や土塁、水濠を備えた近代的な西洋式城郭でした。正門であった藩庁門、堀、土塁が残されています。
※現地案内板より

山口御屋形跡
長州藩は、文久2年(1862)、藩論が破約攘夷に転換すると、攘夷に備えて城地を内陸部に移すこととし、新城地選定の作業に入った。 沿海の地では直接異国艦船からの脅威にさらされ、防御戦闘に耐えられないとの理由であった。沿海の地を避けて藩内に移鎮の地を求めるとき、地域経済の発達状況や交通の利便性だけでなく、

かつて大内氏によるまちづくりが行われた藩央の地山口は、長州藩の政治的・軍事的拠点となる適地であった。その山口移鎮は、文久3年(1863)4月16日に実行された。 一方、城地の最終選定作業は難航し、一致した結論を得ないまま、5月10日からの攘夷戦闘に突入した。結果は報復を受けて惨敗であった。海軍艦船を失った長州藩では、防備を陸上に移し、山口周辺に関門(関所)・砲台場などを急造し、防備の強化をはかった。城地が山口県庁の現在地で決着したのは7月18日であったと推定される。

これら一連の防備構築を中心になって推進したのが、周布政之助や兼重慎一であった。山口御屋形(山口城)はその後大村益次郎らの意見も入れ、元治元年(1864)正月の地開き、 5月の斧始めの儀を経て、10月16日、洋式の稜堡式城郭として完成するが、直後の第一次長州出兵の結果、破却された。再建は慶応元年(1865)4月に始まり、翌年5月藩主初入城、その後第二次長州出兵(四境戦争)や戊辰戦争をはさんで、明治のはじめに及んでいる。
※現地解説版より

山口県政資料館

旧県会議事堂






東稜堡の砲台跡
東稜堡は、萩往還方面への備えとともに、東門や中央稜堡の前面を抑える砲台で、3門の砲が置かれていたようである。

山口育児院旧院舎跡

山口城(山口藩庁)の土塁跡
現在の山口県庁のほぼ全域は、幕末に建てられた山口城跡の範囲に当たります。山口県(文化振興課)は、この解説版周辺の36㎡において、旧知事公舎跡地石積擁壁工事に伴い、令和5年7月18日から8月7日に発掘調査を行いました。

これまで山口城跡(山口藩庁跡)における発掘調査の履歴はなく、この調査が初の考古学的な調査となりました。調査の結果、幕末の絵図(山口御屋形差図)に描かれた土塁の一部が地下に埋没していたことがわかりました。また、土塁の構築工程や構造の特徴について知ることができました。
※現地解説版より

東稜堡の基礎石垣
1mを超える大石もあるこれらの石は、大内氏の築山館城(上竪小路)にあったものを転用したと伝えられる。

洞春寺山門
洞春寺は戦国時代に中国地方の大半を治めた毛利元就の菩提寺です。安芸国の吉田郡山城内に創建され、明治の初年に萩から当地へ移りました。この地には応永年間の初め(1400年頃)に大内盛見が建立した国清寺があり、山門はその遺構といわれています。門の様式は四脚門であり、奈良時代から建造され始めた格式の高い門です。

構造手法は雄大で、特に太い円柱や彫刻のない大きな板蟇股、反りの大きい垂木などが当時の特徴を表しています。解体修理の際に、桟瓦葺きの屋根は檜皮葺きに復元されました。なお、洞春寺には国指定重要文化財の洞春寺観音堂をはじめ、数多くの文化財があります。
※現地解説版より


2026/8 最終訪問
城郭周辺地図
駐車場