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概要

🏯
築城年
1601
✕
廃城年
1871
📍
所在地
大分県速見郡日出町
🏛️
別名
暘谷城、青柳城
🪨
城址碑
あり
🪧
案内板
あり
🎖️
名城指定
対象外
基本情報
種別 近世城郭 縄張 梯郭式平山城
城主 木下氏 天守 複合式層塔型3重3階(非現存)
主な遺構 移築櫓、移築門、天守台、曲輪、石垣、堀 現状 町指定史跡「日出城跡」
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大分県速見郡日出町

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概要

日出城(暘谷城)は、慶長6年(1601年)に日出藩初代藩主の木下延俊によって築かれた海城(平山水城)である。別府湾に面した海食崖上に位置し、本丸を中心に二の丸、三の丸を階段状・扇状に配した梯郭式の縄張を持つ。縄張りは義兄である細川忠興の助言を受けたと伝わり、海側には堅固な穴太積みの高石垣が築かれた。天守台には三重天守に相当する天守(御三階櫓)が建てられていたが、明治7年(1874年)の廃城令により建造物の大半が解体された。現在、本丸跡は日出小学校敷地、二の丸跡は日出中学校や公園となっており、別府湾を見下ろす雄大な石垣、空堀、内堀が良好に残るほか、城外に移築されていた鬼門櫓と裏門櫓が城域周辺に再移築・保存公開されている。

歴史的役割

関ヶ原の戦いにおいて東軍に属して旧領を守り、3万石で入封した豊臣秀吉の正室・北政所(ねね)の甥である木下延俊が、日出藩の藩庁・居城として築城した。南方を望む別府湾の海運交通の掌握と外敵への防備を兼ね備えた要衝であり、木下氏は外様大名ながら減封や転封を経ることなく、初代延俊から16代俊愿に至るまで約270年間にわたり一度も改易されることなく明治維新まで統治を維持した。城下には儒学者・帆足万里を輩出した藩校「致道館」が開かれるなど教育や文化振興の拠点にもなった。江戸幕府下において豊後国湾岸部の要地を防衛・統括し、海運交易路を押さえるとともに幕末まで安定した藩政を貫いた政治的・軍事的中枢拠点である。

ご当地グルメ

🍴 城下かれい、とり天、りゅうきゅう、別府湾ちりめん、日出ポーク

アクセス・探訪情報

  • 🚗 駐車場: 有(二の丸館駐車場、無料約30台)
  • 🛣️ 車でのアクセス: 大分自動車道 日出ICから国道10号経由で車で約10分
  • 🚃 最寄り駅 / バス: JR日豊本線暘谷駅から徒歩約10分
  • ⏱️ 見学所要時間: 60分

おいど攻城記録

駐車場


城下海岸


別府湾


城下海岸


日出城(暘谷城)趾の下の海岸は、俗に「城下海岸」と呼ばれ、波静かな別府湾と高崎山を望む景勝の地であります。江戸時代は「日出の殿様 木下様は 城の下まで船が着く」と歌われたといい、青い別府湾、緑の松が白壁の天守閣に映えていた昔の暘谷城の威容が偲ばれます。

「海中に真清水湧きて魚育つ 虚子」の句碑が城下海岸の中ほどに立っています。城下海岸と共に有名なものに「城下カレイ」があります。城下の海中の清水の湧く海底で育ったカレイは特に美味だといわれています。夏の夕涼みの頃、夕映えの別府湾を望む城下海岸を中心に日出の古い歴史散歩を楽しむのも一考かと思います。
※現地説明版より

日出城(暘谷城)の石垣


日出藩初代藩主木下延俊は、慶長6年(1601年)秋より約1年の歳月をかけて日出城を築きましたが、石垣の構築は細川忠興の家臣で築城の名手・穴生理右衛門の指揮によってなされたといわれています。「穴生」は、近江国穴太(滋賀県)の石工の集団・穴太衆を指します。穴太衆は、安土桃山時代から江戸時代にかけて多くの城の石垣を手がけました。穴生理右衛門もまたその一員であったと思われ、彼の指揮により築かれた日出城の石垣は、「穴太積み」として呼び親しまれています。

日出城の石垣は、築石(つきいし)に自然石や粗割石を用いた「野面積み」の技法で、「乱積み」(石材を不規則に積み上げ、横目地が通らない)と「布積み(石材を一段ずつ横に並べて据え、横目地を通す)」の中間にあたる「布目崩し積み」により構築されました。日出城本丸天守台の石垣にみられるように、こうした規模の「穴太積み」の石垣は、大分県下においても大変珍しいといわれています。日出城の歴史とともに「穴太衆」そして「穴太積み」の歴史を語り継ぐ貴重な石垣です。
※現地説明版より

望海櫓跡


本丸


日出城の時鐘


この時鐘は元禄8年(1695年)、日出藩三代藩主木下俊長の命により鋳造されたもので、日出城外の大手(現二の丸館付近)の土居にかけられ、毎日一二刻の時を知らせていました。明治時代を迎え、時鐘は現在地(日出城本丸裏門櫓跡)に移設され、

太平洋戦争期には供出の危機にも直面しましたが、地元有志の手により守り伝えられ、現在、日出小学校児童が毎朝八時に鐘をつき、時の知らせとともに元禄の鐘の音を響かせています。時鐘の総高はおよそ1.35m、口径75.5cm、胴部はあまり張らず、撞座は八葉の法輪形を鋳出しています。また胴部には、俊長と親交のあった幕府の儒官人見竹洞筆の銘文が施されています。
※現地説明版より

日出城の築城


日出藩木下家は、全国でも数少ない豊臣秀吉ゆかりの大名です。初代藩主木下延俊は、父家定とともに秀吉に仕え、関ケ原の戦では、義兄の細川忠興の強い説得により徳川方に付き、忠興の幕府への取り成しによって、豊後国速見郡日出3万石が与えられました。

慶長6年(1601)8月、日出に入国を果たした延俊は、日出城の築城に着手。城の縄張(設計)は忠興が行い、石垣も忠興の家臣穴生理右衛門を棟梁に構築されました。天守は家定の助勢により築かれ、裏門の扉は富来城(国東市)の城門扉を転用したといわれています。本丸には、御殿を中心に天守、大手門、搦手門、櫓が築かれ、鬼門にあたる北東隅の城壁は入隅のをなし、その上に築かれた鬼門櫓本体も隅欠きを施した特異な構造となっています。裏鬼門(南西)の城壁も同様に隅を欠き、横矢が掛けられています。
※現地説明版より

天守台


日出城址


日出城は、別府湾を望む低台地上に築かれた階郭式の平山城です。別名「暘谷城」ともいわれ、三代藩主俊長が中国の古書『淮南子』或いは『書経』より引用し、命名したといわれています。日出藩木下家は、全国でも数少ない豊臣秀吉ゆかりの大名で、初代藩主木下延俊の父家定の妹おね(高台院)が秀吉の正室(妻)となったため、木下姓を許されました。

慶長6年(1601年)8月、日出に入国を果たした延俊は、幕府の許可を得て、日出城の築城に着手。翌7年8月には概ね完成し、延俊は築城する間、領内藤原村に設けていた仮館を離れ、日出城に入城を果たしました。日出城は本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸外郭を重ねた構えをなし、郭は堀により仕切られ、要所には、城門が設けられました。明治4年(1871年)の廃藩置県以降、鬼門櫓と裏門櫓を除き、城内の建物は、次々に取り壊されました。
※現地説明版より

滝廉太郎像


帆足萬里像


大手門跡


蒲鉾塀


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城郭周辺地図

大分県日出町

日出町観光協会駐車場(無料)


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