概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
公田城(くでんじょう)は、神奈川県横浜市栄区公田町(旧相模国鎌倉郡公田郷)のいたち川上流域南岸にそびえる標高約80メートル(比高約55メートル)の険峻な城山尾根上に所在した中世山城(砦)跡である。尾根頂部の平坦面を中心に本丸および複数の腰曲輪が連郭式に配され、背後の尾根筋を遮断する堀切や空堀、土塁、急峻な切岸加工段が良好に残存する。鎌倉の北東側の境界山稜に占地し、武蔵国方面から鎌倉へ抜ける古道やいたち川沿いの交通路を監視する軍事要害であった。後世の山林化や一部住宅造成があるものの、城山山頂付近には土塁や堀切の明瞭な土木遺構をとどめており、栄区内でも屈指の険阻な中世山城の縄張構造を残す。
歴史的役割
平安時代末期に三浦半島を本拠とした有力武士団・三浦一族の当主である三浦大介義明が、鎌倉の防衛および所領警備の前哨拠点として砦を構えたことに始まると伝わる。治承4年(1180年)の源頼朝挙兵に際しては、衣笠城合戦に至る過程で重要な軍事中継点となった。鎌倉時代から室町時代を経て、戦国期には小田原北条氏の支配下に入り、玉縄城を守る東方外郭支城・境目砦として再整備された。金沢八景・六浦湊や武蔵国境(武相国境)を往来する敵勢力に対する早期警戒および狼煙連絡網の一翼を担ったと考えられている。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡したことに伴い廃城となった。
見どころ
城山尾根頂部を分断する深さ約2〜3mの明瞭な堀切・空堀遺構、主郭平坦面の縁辺部に残存する土塁の高まり、いたち川流域に向かって落ち込む中世山城ならではの険峻な切岸急斜面、山麓に鎮座する古代・中世以来の信仰を伝える荒脛巾神社(アラハバキ社)や神明社周辺の歴史景観、標高80mの山頂部からいたち川流域・大船・円海山・富士山方面を見渡す国境・街道監視拠点ならではの眺望
ご当地グルメ
大船軒鯵の押寿し、横浜家系ラーメン、サンマーメン、栄区産採れたて野菜(トマト・大根)料理、ハマぽーく豚肉料理