概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
引田城(ひけたじょう)は、香川県東かがわ市引田に所在する瀬戸内海(播磨灘)に突き出た岬状の独立山塊・城山(しろやま、標高約82メートル)に築かれた織豊期の本格的近世山水城跡である。国の史跡、続日本100名城(177番)に選定。中世に在地領主の寒川光益が築いた城砦を起源とし、天正15年(1587年)に讃岐一国17万石余の領主として入封した生駒親正が、東讃岐支配および瀬戸内制海権掌握のため総石垣造りの近代城郭へと大改修した。山頂の本丸・天守台を中心に二の丸、北二の丸、南郭群、化粧岳などを配する連郭式縄張を持つ。発掘調査では安土城や大坂城の系譜を引く織豊期初頭の荒々しい野面積み高石垣群や虎口、瓦片、礎石建物跡が確認された。三方を播磨灘の海と急崖に囲まれた天然の海城要塞であり、山麓の良港・引田湊(風待ち湊)と一体をなす軍事・通商拠点として機能した。
歴史的役割
讃岐東部の防長要衝および畿内と四国・瀬戸内海を結ぶ海上交通路を抑える最重要軍事拠点として激動の戦国攻防を刻んだ。天正11年(1583年)、四国制覇を狙う土佐の長宗我部元親の大軍と、羽柴秀吉に通じる十河存保軍が激突した「引田の戦い」の舞台となり、仙石秀久・十河連合軍が大敗を喫した。豊臣政権による四国平定後、天正15年に入封した生駒親正は当初引田城に入城し、石垣普請や城下整備を進めて讃岐統治の拠点とした。しかし城域が手狭で領国中央から偏っていたため、親正はまもなく西方の高松(玉藻浦)に近代的な高松城(玉藻城)を新造して本拠を移転。引田城は讃岐東西支配の支城(東讃岐の抑え)として維持されたが、高松城完成や一国一城令の先駆けとなる城郭集約政策により、慶長年間初頭に廃城となった。後世の破却・近世改変が極めて少なく、織豊期石垣山城の初期様相をそのまま留める。
見どころ
本丸を取り囲み織豊期初頭の石垣技術を伝える荒々しく雄大な「野面積み高石垣群」および「天守台石垣」、本丸入口に構えられ直角に屈折する迎撃空間を備えた「本丸枡形虎口」遺構、山頂尾根筋を鋭利かつ深大に分断する「堀切(空堀)」および急峻な「切岸」、城兵の生命線を支えた山頂稜線下の「井戸跡」、山頂本丸・狼煙場跡から播磨灘・瀬戸内海の多島美・引田湊・鳴門海峡方面を一望する360度の大パノラマ、江戸期の風待ち湊として栄え白壁の醤油蔵が建ち並ぶ山麓の「引田の町並み(重伝建地区近接)」、讃岐の歴史・引田城資料を展示し続日本100名城スタンプが置かれた「讃州井筒屋敷」、国指定史跡碑・案内板