概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
建部山城(たけべやまじょう)は、京都府舞鶴市字下東・喜多に所在する舞鶴湾と由良川河口に挟まれた「丹後富士」と称される標高約316メートル(比高約310メートル)の円錐形独立峰・建部山山頂部に築かれた中世屈指の山岳要塞跡である。舞鶴市指定史跡。南北朝期に丹後守護・一色範光が丹後支配の守護所・本拠として築城した。山頂の最高所に方形の主郭(本丸)を配し、尾根伝いに二の丸、千畳敷、米蔵跡などの曲輪群を放射状・階段状に展開。痩せ尾根を鋭利に遮断する深大な大堀切、斜面に穿たれた竪堀群、主郭縁辺部の土塁、切岸、石積み(石垣)、籠城用水場(井戸跡)が良好に残る。明治期には舞鶴鎮守府防衛のため山頂城郭遺構の一部を削平して旧陸軍「建部山堡塁(砲台跡・レンガ造弾薬庫)」が構築されたため、中世山城の土木遺構と近代要塞の軍事遺構が重層的に混在・併存する極めて稀有な史跡景観を呈している。
歴史的役割
丹後国の中枢(加佐郡)と日本海海運(舞鶴湾・由良川舟運)を眼下に一望・完全制圧する丹後守護一色氏累代の政治・軍事大要塞であり、戦国期における織田信長配下の細川藤孝(幽斎)による「丹後平定戦」の主戦場として名高い。天正7年(1579年)、信長命を受けた細川藤孝・忠興軍が丹後へ侵攻すると、一色義道(丹後守護)は難攻不落を誇る当城に籠城。しかし細川軍の猛攻と一族配下の内応・謀叛に遭って城は炎上・落城し、義道は城を脱出後に中山城で自刃した。その後、残された一色義清ら残党が弓木城等で抵抗を続けたが、天正10年(1582年)の細川氏による謀殺で一色宗家は滅亡。細川氏は平野部に近世城郭「田辺城(舞鶴城)」を築いて本拠を移したため廃城となった。中世守護大名の権威の象徴から戦国争乱の終焉、さらに近代要塞へと軍事的地政学価値が継承され続けた歴史的記念碑である。
見どころ
丹後富士山頂に削平された「主郭跡(本丸跡)」および放射状尾根に連なる「二の丸・千畳敷・蔵屋敷」の曲輪群、尾根続きからの敵進攻を峻険に遮断する深大な「大堀切」および斜面に無数に刻まれた「竪堀」・「空堀」遺構、主郭を取り巻く「土塁」および山腹を削り落とした威圧的な「切岸」・「石積み」痕跡、山頂展望広場から見晴らすリアス式海岸の舞鶴湾・日本海(若狭湾)・由良川の蛇行・青葉山および舞鶴市街地の雄大な360度大パノラマ絶景、山頂部城郭遺構に重なるように残る明治期の近代軍事遺産「建部山砲台跡(赤レンガ造弾薬庫・観測所・棲息掩蔽部)」、舞鶴市指定史跡標柱・詳細な解説案内板